式子内親王 と並んでの“才媛”内親王といえば、有智子(うちこ)内親王ではないでしょうか。


式子内親王よりもずっと時代はさかのぼり、平安初期・嵯峨天皇の皇女です。

(全然関係ないけれど、○○子、という三文字の女性名前はいいですね! 嵯峨天皇の皇后・嘉智子 しかり、平安初期のころまでわりとみられます。佳珠子、多美子……格調高くて憧れます。)


さて、有智子内親王は、その漢詩の才で歴史に名をとどめています。


ただ、彼女を知る材料は少なく、もっともまとまった史料は、正史『続日本後紀』承和14年(847)10月26日の死没時の紹介記事です。あとは、漢詩を10首、「経国集」「雑言奉和」などに残すのみです。


有智子は、大同2年(807)、舎人親王の孫・山口王の娘である交野(かたの)女王を母として生まれました。

わずか4歳で、賀茂の斎院に卜定されました。嵯峨天皇と兄・平城上皇の不和(いわゆる「薬子の変」)をめぐる処置だったといわれ、これが初代の賀茂の斎院です。後代、式子内親王もつとめることになります。

なお、「一代要記」「本朝女后名字抄」などでは、有智子が4歳にあたる弘仁元年(810)のこととしていますが、「帝王編年記」などでは弘仁9年(12歳)の卜定とされています。

いずれにせよ、幼いころから有智子は神に仕える身であったといえましょう。


上記にある正史に載った有智子の逸話は、この斎院時代のことでした。弘仁14年(823)2月、父・嵯峨天皇の斎院花宴行幸の際です。有智子の詠んだ漢詩は、当代随一の漢詩人でもあった父をうならせ、その場で三品と封百戸を賜ったそうです(833年に二品)。有智子17歳でした。さらに、「感謝の気持ちを忘れず文章で国家に名をあらわし、栄楽をもって山水の趣味を忘れてはならない。これからも永く奥ゆかしい気持ちを持ちつづけ、無事によい年月を過ごせ」という意の詩も賜りました。


このすぐ後5月に、嵯峨天皇は異母弟の淳和天皇へ譲位しました。


淳和天皇の時代に編纂された勅撰漢詩集が、「経国集」(827年、21歳)です。

嵯峨天皇の時代の「凌雲集」(814年ころ)「文華秀麗集」(818年、12歳)には有智子の詩は掲載されていませんから、彼女の詩作時期は、10代なかばからと推測されます。「経国集」のあとの詩作が残っていませんが、おそらく有智子の親しんだ弘仁朝の文才たちや、承和9年(842)に嵯峨天皇が亡くなるまで、詩作は続けられたのではないでしょうか。


有智子が斎院を辞したのは、「本朝女后名字抄」によれば淳和天皇の天長8年(831)、病のためとされています。弘仁元年(810)からの在任とすれば、実に21年間、賀茂にいたということになります。(初代の有智子もそうですが、斎院は伊勢の斎宮と異なり、天皇の代替わりごとに必ずしも交替するというわけではありませんでした。)亡くなるときには嵯峨西荘にありましたから、退任後は嵯峨でひっそりと暮らしたものと思われます。



有智子のすごいところは、かな文字もまだ誕生していない時代ですから、女性が漢文を操って男性に伍したという点だと思います。また、このころは文学といえば経国思想ですから、ますます女性の入る隙はなかったはずです。そうしたなか、皇族に限っていえば、文化的にもトップであった嵯峨天皇の次に位置するほどの評価を得ていました。


しかも未婚の、神に20年以上も仕えた、内親王さまですからねー。神々しいですわー。(こういう女性、好きだな私……)



享年41歳。薄葬と朝廷からの葬使の辞退を遺言していたそうです。

正史は、有智子について述べます。「頗渉史漢、兼善属文」(「史記」と「漢書」によく通じ、さらに文章を得意とした)、「性貞潔」(人柄は貞節)……


最後に、嵯峨天皇を感嘆させた花宴の詩を載せておきます。

 寂寂幽庄水樹裏 仙輿一降一池塘

 栖林孤鳥識春沢 隠澗寒花見日光

 泉声近報初雷響 山色高晴暮雨行

 従此更知恩顧渥 生涯何以答穹蒼


超だいたいこんな感じ。

静寂な山荘に天皇がお出ましになり、鳥も、花も、春の恵みを受けて喜んでいるわ(そして、この私も、とても光栄です!)。泉も、山も、すっかり春の情景。なにもかも天皇のおかげ。その広いご恩に感謝するとともに、私は生涯どうやって報いたらいいのかしら!


[参考文献]

 『日本女流文学史』同文書院、1969年

 森田悌『全現代語訳 続日本後紀(下)』講談社、2010年

 『国史大辞典』吉川弘文館