先日読んだ、平井啓子『式子内親王の歌風 』に、式子内親王が古来のさまざまな歌から摂取して作歌している(本歌取りというほどではなく、一部の用語などを取り入れる意)様子を追った部分がありました。


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)といえば、私が知っていたのは次の歌。


  恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛(うるわ)しき 言尽くしてよ 長くと思はば
                               (万葉集・四・六六一)


「恋ひ恋ひて(こひこひて)」の歌は、ほかにもあるらしい。


  恋ひ恋ひて 逢ひたるものを 月しあれば 夜は隠るらむ しましはあり待て
                                  (万葉集・四・六六七)


式子内親王は、「恋ひ恋ひて(こひこひて)」の部分を、以下のように摂取しています。


  こひこひて よしみよ世にも あるべしと いひしにあらず きみも聞くらん
                                  (式子内親王集・八三)


  恋ひ恋ひて そなたになびく 煙あらば いひしちぎりの はてとながめよ
                         (同・八五/新後撰・恋四・一一一三)


坂上郎女の歌は実際に逢った歌、対して式子内親王の歌は実際には逢えない歌なんだな……。


坂上郎女といえば、奔放な恋をした万葉の女性、というイメージです。


しかし、『日本女流文学史 』を読むと、ちょっと印象が変わります。久米常民論文「大伴坂上郎女」では、「「家」のために、恋愛も結婚も犠牲にした女の生涯(略)旧名族であったが故に、時代・社会・政治の新しい動きにはさまれて自由を奪われたいたましい人間の肖像画」 [40頁] とありました。確かに、坂上郎女は“大伴氏の家刀自”として、斜陽の名族・大伴氏のために尽くした一面もあるでしょう。


たくさんの“女性歴史もの”作品がある、三枝和子の小説にも坂上郎女を扱ったものがありました。

『万葉の華―小説 坂上郎女』

http://mediamarker.net/u/n-kujoh/?asin=4643971126

これも意外とさびしい内容になっています。

大伴の廟堂での勢力は、天皇家を囲い込んだ藤原氏に押されて消えてゆく時代です。さらに、橘奈良麻呂の乱では、一族の中に首謀者の一人として処罰される者も出ます。

そんな時代に、異母兄・旅人から託された大伴一族の結束をはかろうと、坂上郎女は奮闘します。長女の坂上大嬢を旅人の息子で大伴嫡流の家持に、次女の二嬢を一族の駿河麻呂に嫁がせます。また弟・稲公には亡夫・宿奈麻呂の娘である田村大嬢を娶らせます。思えば坂上郎女自身も、はじめは望まれて穂積皇子と結ばれ、藤原麻呂との恋愛などもありましたが、最後は異母兄の宿奈麻呂と一族結婚をしています(大嬢・二嬢はその子)。[藤原麻呂との恋愛は宿奈麻呂との結婚後との説も※上述の久米氏論文参照]


『万葉の華』の中に、印象的なシーンがありました。坂上郎女は、家持が詠んだ天皇へのそつのない献上歌を目にし、かつて自分が天皇へ献上した歌を思いうかべ、ある感懐をいだきます。


  ――ずいぶんの遊び心で歌を差しあげたものだ。

  坂上郎女は溜息をついた。天皇家との信頼関係があったればこその献上歌であった。郎女は自分の歌と家持の歌とを比較した。天皇家と現在の大伴の家の隔たりは大きい……。 [186頁]


歌で大伴の没落を実感するという、象徴的な場面でした。確かに万葉集に彼女の歌があります。


  にほ鳥の 潜(かず)く池水 情(こころ)あらば 君にわが恋ふる 情示さね (四・七二五)

  外(よそ)にゐて 恋ひつつあらずは 君が家の 池に住むとふ 鴨にあらましを (四・七二六)


こんな歌もありました。


  あしひきの 山にしをれば 風流(みやび)なみ わがする業を とがめたまふな (四・七二一)


いずれも、時の聖武天皇に贈った歌です。天皇への献上歌にしては、「恋ふる」「恋ひつつ」「とがめたまふな」なんて、軽妙な雰囲気です。[※中西進『万葉集 全訳注原文付』講談社、参照]


ほかに読んだ坂上郎女の小説といえば、永井路子の短編集『裸足の皇女』所収のものがあります。


坂上郎女を扱った漫画もあります。私が読んだのは、長岡良子の<古代幻想ロマンシリーズ>より、以下の二冊。


1.初月(ミカヅキ)の歌

http://mediamarker.net/u/n-kujoh/?asin=4253178782

2.天(そら)ゆく月船(ふね)

http://mediamarker.net/u/n-kujoh/?asin=4253093027


2.には、短編「晩蝉(ひぐらし)」が収められています。彼女がまだ若いころの話で、穂積皇子との恋愛がテーマです。若々しくて怖いもの知らずのまっすぐな情熱、魅力的な姿が描かれています。


1.は、甥の家持と娘の坂上大嬢が結ばれるまでを描きますが、坂上郎女ももちろん重要な役回りで登場します。2.に比べるとだいぶ年をとっていますが、かえって妖艶な美しさです。


1.で、家持が恋人(紀郎女)に指摘される場面です。

 「あなたが本当に 求めてやまないのが誰なのか/あなた自身 気がついてないらしいけど…」

 「私が? 誰を想っているって?」

 「坂上郎女 そうでしょう?」

思ってもみなかったことに驚く家持。

 「あれだけの女性(ひと)は めったにいるものじゃないわ/そんな女(ひと)を 幼い時から 身近に見て 父君がお亡くなりになってからは あなたの保護者でもあったのでしょう?/あなたにとっての 郎女は 叔母であり 母であり 理想の恋人でもあるのだわ」 [73-74頁]


また、家持が内舎人として初出仕した日、突然に(聖武)天皇と御簾越しの対面をすることになります。その特別なはからいの理由とは……

 「坂上郎女が 季節の歌と共に 時折り そなたの事を 書いて寄こした/早く出仕してこぬものかと 心待ちしていたぞ」 [147頁]

ここにも歌が!


あの大伴家持の憧れの女性が叔母の坂上郎女だった、などとはありえない話ではないし、魅力的でもあると思います。三枝和子の上記小説でも、家持は自分でもそれと気づかず、叔母に淡い初恋を抱いていた様子でしたし……。