原発事故当時、経産副大臣であった池田さんの調書を読んだ。特に最近のマスコミ報道では、3月12日早朝に私がF1の現地視察したことについての池田さんの調書が引かれることが多いので、その点について述べる。


  全体として、現地対策本部長として池田さんが大変な苦労をされたことが調書からよくわかる。私に関する池田さんの証言も、本人の率直な感想や意見だ。


  12日早朝の現地視察の時に私が怒鳴ったという表現が何度も出てくる。しかし声が大きかったかどうかよりも、誰と何を話していたかが重要。


 まずヘリを降りて、免震棟に向かうバスの中の状況について、池田さんは調書の4頁で次のように証言している。

 「バスに乗り込んだら、私はバスの配置を決めておいて武藤さんと並んでもらったら、いきなりそこで怒鳴りつけて、何が何だかわからない。とにかくベントだと思うのですが。」


 この証言にある通り、ヘリを降りてバスに乗ると、東電の技術畑全体の責任者の武藤副社長が隣の席に座ったので、なぜベントが遅れているのかという点を聞いたことは事実です。もともと、東電本店から官邸に来ていた武黒フェローに聞いても分かりませんというので、現場の責任者に会うことが必要と考えて現地に行ったのだから、東電全体の技術責任者が隣に座れば、ベントについて聞くのは当然だ。



 池田さんの調書の34から35ページでは武藤副社長のことを「武藤さんが(技術畑で)もっとも遠い(偉いの間違いか?)人です。何を言っているのかさっぱりわからないですよ。(中略)普段の方針とかも声は小さい」と池田さん自身述べている。バスの中でも武藤さんの声がよく聞こえず、そのため私の声が大きくなっていたかもしれない。池田さんは「怒鳴った」と表現していますが、私は重要なことを聞いたと思っている。


 また池田調書の5ページで、「菅の態度については、大変遺憾だと思うのです。特に民間人に、『一体なんのために俺がここに来たと思っているのだ』これは本当に呆れた」と述べられている。この点フジテレビの取材でも説明したが、私が言った意味が誤解されたようだ。事実は次の通り。


 バスを降りて免震棟に入ると「並んでください」と言われ、中で並んでいた人の列の後ろに並ばされた。しばらく並んでいて、その列が外から帰ってきた作業員の被ばく線量を計るためだということが分かり、「私は作業員ではなく、吉田所長に会いにきたのだ」という趣旨のことを言った。この時の発言を池田さんは誤解したようだ。


 私が吉田所長と会った場面につい、次のように池田さんは証言している。「要するにベントについて言って、最後は決死隊を作ってでもやると言ったので、そこはちょっと落ち着いた。菅は落ち着いていなかったけれども、一応ちょっとね。」


 私が現地に来たのは、住民避難を判断する原子力災害対策本部長として、ベントがなぜ遅れているのか、放射性物質の放出がどうなるのかを知るため。責任者の吉田所長から説明を受け、この言葉を聞いたので納得して、会談を終え、出発した。この場はほとんど私と吉田所長二人の間のやり取りで、怒鳴る必要もないし、吉田所長に対して怒鳴った覚えもない。


 

  私に批判的なマスコミは、当初は吉田調書をもとに、私と吉田所長の対立をあおろうとする意図を持った報道が多かった。しかし、撤退問題も私と吉田所長の食い違いではなく、東電本店の清水社長とと吉田所長の考えが食い違っていたことがはっきりしてきた。そこで今度は池田調書での証言をもとに、「怒鳴った」というイメージを強調する報道が増えてきている。イメージではなく、事実をきちんと押さえ、事実関係について両説がある場合は両方の意見を報道すべきだ。


  そして報道関係者はもっと声を大きくして、公開されていない東電関係者の調書と東電のテレビ会議の全面公開を要求すべきだ。


 特に、読売や産経は事故当時のことについて、政治家批判は熱心だが、東電に対して腰が引けている。東電の資料が全面公開されれば、原発推進に障害になるから、東電に資料公開を迫らないのだとしたら報道機関として失格だ。そうでないことを信じたい。事実関係をはっきりさせ、今後の原子力政策をどうするべきかの議論に役立てるべきだ。