書物からの回帰-四月の公園

初恋というツルゲーネフの作品は、恐らく学生時代に読んだと思います。しかし、記憶に残っていませんでした。

それは、当時、あまり感動しなかったからだと思います。

では、今頃になって何故読むのかと言いますと、短編で手短に読めると思ったからです。

最近、日々の活動に多くの時間を取られていて、すっかり、読書の時間も取られてしまいました。

読みかけの「語りえないものを語る」という、 野矢 茂樹さんの本があと少しだったのですが、止まったままです。

野矢 茂樹さん流で言うと、僕の日々が論理空間より行為空間での活動に重きを置いた状況になったからです。

でも、やはり読書はしたいものです。

それで、何か軽く楽しめるような本で・・・短編を、と思って図書館で所望して・・・ふと、目に付いたのがこの本です。

タイトルがとても甘くていいですね。

作者のツルゲーネフという名前もいい!

でも、ひと昔読んだはずなのに内容に記憶が無い要因は?つまり、当時これを読むに早すぎたのか?それとも読んだつもりで読んでいなかったのか?という二つのことが考えられます。

読んだつもりで読んでいなかったとしたら、学校の勉強で作家と作品を覚えただけだったのかもしれない。(笑)

そうしたところで、神西 清の翻訳本を読みました。

しかし、読後感がどうもすっきりしません。

正直言って、つまらないと思いました。

何故だろう?と考えました。

それは、タイトルに対する自分の想いとこの本に書かれている内容があまりにもかけ離れているということと、この作者の意図が何なのか?がつかめていないからだと思いました。

それで、もう一人の翻訳者の米川正夫の訳本を借りてきました。

これで気付いたのですが、
米川正夫は、「初恋」、そして、神西 清は、「はつ恋」です。もちろん、神西 清の翻訳が後です。

内容を比較して読んでいくと、やはり、微妙に訳し方に違いがあります。これだと、読者も受け止め方が微妙に違ってくるものです。

専門家同士の翻訳で、こうも訳に関して表現が違うと言うことは、言語と言うものが
如何に曖昧なものかということですね。

言い方を変えると遊びのある論理構造かもしれません。

米川さんに対する翻訳批判というものがありました。つまり、文法中心で作品が生きいきとしていないということです。果たしてそうでしょうか?

それに対して、
神西さんは、やわらかな意訳でしょうか?読みやすさがあります。では、作者の意図を辿る時はどちらがベストなのでしょうか?

意訳でわかりやすく翻訳するのはいいけど、もし、その意訳する人の主観で別な方向に訳されたら、読者の受け止め方が大きく変わります。

だから、意訳も難しいところがあります。

さて、この初恋の大きな特徴は、主人公が愛する初恋の相手が愛しているのは自分ではなく自分の父親であるという設定にあります。

これは、ツルゲーネフの半自叙伝でもありますから、説得力はあります。

今では、これに近いことが芸能界ではニュースとしてありうることですが、
ツルゲーネフの時代ではセンセーショナルな作品だったと思います。

それだけでもかなりの話題になったと思います。

ですから、初恋という甘い言葉がこの小説ではバカバカしく吹き飛んだ感すらあります。それがいいのかもしれませんね。

終わり方もあっけない終わり方でした。

だから、この小説の読後もリアリティさが持続できたと思います。

この小説のタイトルイメージとは裏腹にロマンチックさを打ち消すような、大人の生き様を描くことで人間の不可解な生き方を捉えているのですね。

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ツルゲ
ネフの哲学として、下記のような文面がありました。

神西 清 訳

「取れるだけ自分の手でつかめ。人の手にあやつられるな。自分が自分みずからのものであること―――― 人生の妙趣はつまりそこだよ」

米川正夫 訳

「できるだけのものを自分で取れ。そして、自分を他人にまかしちゃいけない。自分が自分自身のものになるということ
―――― そこに人生の一切の妙味があるのだ。」

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ここで、翻訳の比較をしてみますと・・・

取れるだけ自分の手でつかめ』と、『できるだけのものを自分で取れ』とでは、前者の方に積極性が伺えます。

この『
人の手にあやつられるな』と、『自分を他人にまかしちゃいけない』とでは、前者の訳に強い語調が感じられます。

そして、『
自分が自分みずからのものであること』と、『自分が自分自身のものになるということ』は、微妙な表現ですね。

前者は、もともと自分にあったもの・・・つまり自己宣言的な自覚としての解釈も考えられます。一方、後者だと、なんとなく自助努力で勝ち得ていくという風に捉えられます。

こうしてみますと、
神西 清 訳の方がツルゲネフの生き様を代弁しているように力強く聞えてきますね。


米川正夫の訳はその点一見控えめに感じますね。

これは、翻訳者の性格が出ているのかもしれません。

ついでに、もうひとつ、ツルゲーネフの言葉を比較してみます。

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神西 清 訳

「自由か」と、父は引き取って、「だがね、人間に自由を与えてくれるものは何か、お前それを知っているかね?」

「なんです?」

「意志だよ、自分自身の意志だよ。これは、権力まで与えてくれる。自由よりもっと尊い権力をね。欲する ―― ということができたら、自由にもなれるし、上に立つこともできるのだ」


米川正夫 訳

「自由」、と彼は繰り返した。「一体自由を人間に与えるものはなにか、お前、それを知っているかい?」

「なんです?」

「意志だ、自分の意志だよ。こいつが自由よりもっと尊い権力さえ与えてくれるのだ。欲するということが完全にできたら ―――  自由にもなれば、命令を下すこともできるのだ。」

この訳では、前半は『
意志が人間に自由を与えてくれる』ということで、同じ受け止め方が出来ますが、後半はどうでしょう?

米川さんは、『
欲するということが完全にできたら』と、人間の強い欲求が自由と権力をもたらすと強調して示しているのに対して、神西さんは、欲求のままに生きられたら自由と権力もそれにともなってきますよというやさしい表現になっています。

こうしてみると、今度は
神西さんの方が控えめですね。

ということは、解釈において訳者の気持ちが揺れ動いていることがわかります。

この二つのツルゲーネフの言葉の引用は、主人公の父とその愛人ジナイーダの生き方の説明みたいですね。

でも、結末ははかないもの、そして、あっけない幕切れであったのですから、読者も唖然でしょう。

この小説がつまらないと思うのは、恋愛小説として自分がどうも主人公の立場で読んでいくからかもしれません。

本当の恋は、父親とジナイーダの間にあったのですから、主人公は蚊帳の外です。だから、読者にとってつまらなく感じたのでしょう。

父親の立場に立って想いを巡らせれば・・・恋愛物語になるのですが、残念ながら父親とジナイーダとの間の描写は、最後の別れを主人公が傍観している程度です。

主人公は単なる片思いで終り、あとの顛末はあっけない締めくくりです。

だから、つまらないのでしょうが、リアリティあるつまらない恋愛小説としては、うまくできています。

大人の恋・・・年齢を越えた恋、夫婦という柵を越えた恋、というものを主人公が知りえたというお話ですね。

今年に入ってから行為空間での活動が多忙になって文章を投稿するのが困難になりました。でも、非公開ではかなり書いているのですが・・・メールなどで!(笑)

やっと、四月も終わりに近づきました。いよいよ、今度の水曜日にはスペインに旅立ちます。気候は九州と左程変わらないようです。朝晩が冷え込む地方もあるみたいです。スペインは情熱の国と言われています。

多くの有名な芸術家の産出国ですね。(笑)

さて、どんな旅が待ち受けているのでしょうか?

もちろん、ツルゲーネフの言う、『人間に自由を与えてくれる意志』を持って旅立ちますが、何せ、ツァーですから、制約がありますね。(笑)

自分の意志でもって周りの人たちと楽しく過ごせる。。。

そんな、意志を持つべきだと思って旅行に出掛けます。

by 大藪光政