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2012年02月08日(水)

「学問のすすめ・福沢諭吉」、岬龍一郎氏の訳本を読んで

テーマ:福沢諭吉


書物からの回帰-ローテンブルグの市庁舎屋上から

[ドイツ / ローテンブルグ城内 市庁舎屋上からの展望]


福沢諭吉が身近に感じられたのは、以前、旅行中に中津の旧家に立ち寄ってからです。 諭吉の屋根裏部屋を見学した時にとても郷愁を覚えました。

「学問のすすめ」は、高校の倫理や日本史でも出てきますが、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といった名言で、諭吉と言う人は平等精神をもった人物という認識をもたされました。

あとは、慶応義塾を創設した人物として教えられましたが、よくよく調べると慶応義塾に対する諭吉の貢献度として捉えた方が正しいようです。

「学問のすすめ」というタイトルを聞くと、「勉強しなさい」といった感で受け止めてしまいます。今の小中学生に、『学問』という言葉の意味を伝えるのは難しいですね。

文字通り訳せば、「問うて学ぶ」ということになります。これを生徒が先生に問うて学ぶのか?学ぶべき者が自問自答して独学で学ぶのか?という二つの解釈が出来てしまいます。いずれでも学ぶという行為には違いありません。

では、何を学ぶのか?何の為に学ぶのか?何故、そうしたことを諭吉は勧めるのか?ということになりますね。

そうした見解がこの本に書いてあるわけです。

だから、そういうことに関心のある方はこの本を読めば諭吉の示すところの考えがわかります。

遊びたい人は、「遊びのすすめ」という本があればそれを読めばいいのです。(笑)

でも、そう言ったタイトルの本は無いようですね。

つまり、何故遊ぶのか?何の為に遊ぶのか?何故そうしたことを勧めるのか?と、同様に自問した時、バカバカしくなりますから。(笑)

それは、何故でしょう。

遊ぶということには格別な努力も苦労もないでしょうし、必要なのはそれに応じたお金ぐらいです。

それに対して、学問をやるといった場合は、かなりの努力と苦労、そして、経済的な支えも必要です。だから、誰にでもカンタンにやれるものではありません。それなりの覚悟が要ります。

そうした、大きな負荷が掛かるものに取組むには、それだけのやる気がないと出来ません。"やる気"は、当然モチベーションがないと湧いてきません。

そのモチベーションを決定付けるには、先程の「何を学ぶのか?何の為に学ぶのか?何故、そうしたことを諭吉は勧めるのか?」が、明確になってそれを知ったとき、自分もそうありたいと考えるに至ることが大切です。

それらが不明確な方に、この本の一読を岬龍一郎氏はお勧めなのでしょう。

しかし、すでに学問に励んでおられる方や、諭吉の言う「独立自尊」が出来上がっている方も一度読んでみる価値があります。

僕も独立自尊が出来上がっていると思い込んでいますが・・・(笑)、この本を読んでみると、「なるほど、当時としてはとても革新的な考えを持たれた人物だったのだな」と、改めて、諭吉の斬新さに気付かされます。

この本は、初編からはじまり、第17編までに至っている。しかし、全体を読み終えてみると、後半は悪くはないのですが魅力をあまり感じません。

初編の端書には、「・・・大分県中津に学校を開くにあたり、学問の目的を書いて、同郷の旧い友人にみせるためにこの一冊を編んだ。・・・」と書かれていて、小幡篤次郎との連名で明治四年に記されています。いまから百四十年前のことですね。

小幡篤次郎という人は、同じ中津出身で諭吉の誘いで上京し、慶応義塾長までなられた教育者のようです。

さて、この初編にはいきなり、「身分貧富の差がつくのは学問をしたかどうかにかかっている」という見出しがついています。

つまり、「貧富の差があるのは致し方ない、学問をしたか?しなかったか?の結果がそうだから。」と、言い切っているのです。そうすると、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という名言とはまったく矛盾しているように見えますね。

それを何とか論理としてまとめてみると、「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る。その振り分けは、人それぞれの学問に対する取り組みの度合いで行われる。」となります。

従って、天は初期設定として「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なのだけれども、人々の学問の取り組み次第によってそういう階差が生じる。だから人々の営みにおいて総和的には平等なのである。ということになりますね。

でも、反論として学問が出来るような経済的家庭に生まれれば、本人次第でしょうがそうでない極貧の家庭だと無理な話ですし、ましてや、犯罪人の子供として生まれれば、学問どころか悪事を学ぶ方に傾きますから、一人の人間としてはやはり天は無常であると思いますね。

諭吉は、人と仕事の関係にも触れています。つまり、役人が偉いのではなく、その公の仕事が尊いのだと。これは、今はそんなことはありませんが、五十年前、僕の父が
歩いていたら、通る人は皆頭を下げていました。

それで、そのことを見て父がとても偉い人だと思って、そのことを尋ねると、父が、にっこり笑って、「いや、お父さんが偉いのではなく、この警察官の制服に皆は頭を下げているのだよ。」言っていたのを今でもしっかりと覚えています。

初編の最後の文章はとても大切なことを述べています。

無学であることが本人とってだけでなく国家の利益を損なうことになると言っているのです。これは本当にそうだと思います。国民が愚民であればあるほど、国家が破滅に向うということは歴史が物語っています。

多くの国民が賢人ばかりだと、法律も緩やかで少なくて済みます。それは、中国の諺の通り、「罪人の数だけ法律がいる。」というのが当てはまりますね。

それから諭吉は、金を貯めることは知っても子孫に教育を残すことを知らないような者、そんな愚民になるなとも言っていますから、かなり教育を鳥瞰的に捉えているのがよくわかります。

つまり、教育は継承が大切と言うことですね。

第二編は、『学問こそ生きる力の源泉である』というタイトルのあとに、『知識の問屋になるな』といった見出しがついています。

初編から、すべての編にはこうしたわかりやすい看板が掲げられていますが、これは諭吉がつけた見出しではなく、岬龍一郎氏がこの現代語訳本を作られる時につけられたのでしょう。つまり、中身の要約を見出しにという計らいでしょう。

こうすればタイトルを見て具体的な諭吉の意見を読もうとする意欲が湧くし、理解度も高まると言うものです。ただ、このタイトルも、How to 的になっていくと段々、諭吉の意見が安っぽくなってしまうものです。

第二編の『知識の問屋になるな』という内容をつかんだ抜書きのような見出しは、諭吉が理論よりも実践を大切にするところから来ているのですが、こうした知識ばかりを詰め込んで実際の行動でそうした知識が生かされていない人というのは、いつの世でもいるものです。

ところで、諭吉の家は裕福ではなかったので、諭吉の教育までは手が届かなかったということが他の伝記の本に書かれています。

諭吉が十二、三歳までは本も読まなければ手習いもしたことが無かったようです。つまり、字が読めなかったということですから、初めて塾に通わせてもらったときは年下の者と一緒にやさしい本から習い始めたと記されています。

でも、負けん気はとても強かったみたいで、そのせいで学力がどんどん伸びたようです。やはり、「負けん気」というのは、大切ですね。

旧家の屋根裏部屋を見学した時は、幼少の頃から勉学に励んでいたと錯覚したのですが、彼がそんなに勉学が遅かったとは驚きです。

そして、貧しい家庭で育っていたから、やはり、貧富の差から起きる不平等な扱いに敏感だったのでしよう。

しかし、その「平等」という言葉の意味を取り違えている人が多いのですが、この本には、ちゃんと「生活が等しい」ということではなく、「人間としての権利」が等しいという意味で説明されています。

さて、肝心の「学問のすすめ」のタイトルに対して、学問に対する具体的な取組み方とかいったことにはまったく触れていないようです。

本居宣長は、学問をやる上において、今風に言えば『効率の良い学びかた』は、特になく、日々こつこつとやるしかないみたいなことを書いていましたね。

だから、諭吉もそうしたことは書かなかったのですね。

諭吉が言いたかったのは、多くの国民が学問をすることでいろいろな考えが発生し、郷土のこと、国のことをしっかりと考えてくれる人が生まれるということでしょう。

そうしたことで、郷土や国が立派に繁栄するという確信があったと思います。

国民ひとりひとりが学問を通して「独立自尊」の精神を養い、ひいては国を守るということの重要性に気付いたのは当時として驚くべき先見性だったと思います。

これを万民に訴える行為に出ただけでも大したものです。

そうした先見性の目を持った諭吉が孔子批判をこの本の中で書いていますが、誤読してはいけないことは、孔子の考えを極小的に捉える当時の世間の学識の貧しさに注意を促したとだけだと思ったほうがいいでしょう。

それは、江戸時代から続いた儒学による硬直した日本人の考えを叱咤する心から発したものです。

孔子の考えは大きな観点から捉えると、そんなに間違ってはないと思います。諭吉は、孔子の「女と小人は扱いがたし」と言ったことを批判しているようですが、これも、その一つでしょう。僕も孔子の意見に同感なのですが・・・(笑)

諭吉は、ちゃんと教えない孔子が悪いみたいなことを言っていたようですが、これも、孔子の時代背景も考えないといけないし・・・でも、今の時代でも、そう言えることが多々ありますね。つまり、女性は「論理」よりも「情」ですから、いろいろな会合で議論した時に、どうしても堂々巡りをしてしまいます。

本人は、「論理」がわかっていても、「でもね」と、「情」が出てきます。

でも、それが女性のいいところかもしれません。

女性が、「論理」よりも「情」を優先したがるのは、母性本能から来るものかもしれません。子育てには論理よりも情が必要ですからそうなるのでしょう。

最近の女性は、結構、勉強されている方もおられますから、「論理」と「情」の両刀遣いだと、とても男は歯が立たないでしょう。

だって、論理は学問すれば身に付きますが、情は学問では身に付きませんからね。

ところで、諭吉さんの考えで、あれっ?思うことがひとつあります。

例の最初の名文句です。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」です。
よく考えてみるとおかしいですね。何処がおかしいのかといいますと、学問を勧めている諭吉さんが、『天は』という言葉を使っているのです。『天は』の意味は、『神様』を指します。これだけの学識をもってしても、神の存在を持ち出すのです。

孔子や儒学そのものを古い考えだとして、批判した諭吉さんが何故、神の存在を前面に出して、万民にこうしたおふれを説いたのでしょう。

孔子ですら、神と死に関しては決して触れる事はなかったのですから、諭吉さんはちょっとずるいなあ~と思いますね。

恐らく、万民を説得するには、「天は・・・」と言うキャッチフレーズが一番愚民に対して効果があると思っていたのではないでしょうか?

それとも、海外留学でのキリスト教の影響でも受けたのでしょうか?その辺がわかりませんね。そうして考えると諭吉は探求する学者というよりも、先見性をもった上級指導者的存在なのかもしれません。

それにしても立派なのは民間人の身分でそれを広め続けたというのはすごいことですね。政府の役人になることなく、自分のスタンスでそうした活動に取組んだというのは、今の時代でも難しいし、そうした発想自体はとても自由度が高いですね。

やはり大物です。

こうした大物教育者が現在日本にいたら、今の日本の教育と国家を見て何と言うでしょうか?

恐らく、「学校という箱物は沢山あるが、中身が空ではないか!学問をやっていないではないか!」と、怒鳴るに違いありません。

そうです。

日本の教育界には、諭吉の指すところの学問というものがほとんど消滅しているのです。只の腰掛け的なお勉強となってしまっています。


by 大藪光政
    
   
   
 
   
 
 
    
 
   
 
 
 
 
  
  
  






























2011年12月24日(土)

松下良平の「道徳教育はホントに道徳的か?」を読んで!

テーマ:松下良平


書物からの回帰-エッフェル塔

[ パリ / エッフェル塔 2011年5月1日撮影 ]

この本を読む前に読みかけの本として「語りえぬものを語る」という本を読んでいました。

「語りえぬものを語る」という本は言語哲学の本ですから一般の方が読むには無理があります。恐らく大抵の人は途中ですぐに投げ出すでしょう。

もっとも最初から読まれない方のほうが圧倒的でしょう。(笑)

それを半分ほど読んでいる頃、たまたまこの「道徳教育はホントに道徳的か?」が、図書館に新刊本として入っていました。

それで一寸手にしてみたら、このタイトルに関心を抱き面白そうだなと思って内容を見てみました。すると、とてもわかりやすい書き出しだったのですぐ読み終えると判断し、こちらの本を先に一気に読もうと思い立ちました。

しかし、実際に読み出すとなんだかわからないうちにとても時間が掛かりました。何故でしょう?

文章の書き方も内容も別に難解ではないのに、何故か?時間がとても掛かったのです。確かに所用で多忙だったこともあり、合間合間に読んだから読む効率が悪かったのかもしれません。

ひとつわかったのは、わかりやすい文章を読んでいると僕の場合どうも集中力に欠けるようです。

わかりやすい文章は、昼間でも読めるので、その分色々な雑念が入ります。また、わかりやすくても新しい発見がないと、これまた退屈して集中力に欠けます。

この「道徳教育はホントに道徳的か?」は、どちらかというと今の学校教育における道徳課題だけでなく、教育界全体と社会全体が抱えている問題まで捉えて分析し、問題点を掲げています。

でも、先程の「語りえぬものを語る」を読んでいたせいか、言葉に言い尽くせないものがここにもあるなと思った次第です。

ちょっと皮肉なことを言えば、「道徳教育はホントに道徳的か?」の本は、ホントに道徳的な本と言えるか?とか、「道徳教育はホントに道徳的か?」の本を書いた著者はホントに道徳的な人か?とか言葉の言い回しで疑問の問いかけに対する疑問を意図もカンタンに表現できます。

まさに言葉の為せる技ですね。つまり、論理空間においては何だって言えるのです。ただそれを読んだ時、どこまでが、真実、或いは、本質、それとも真理であるかをどうしても知りたくなります。

そうなってくると、カンタンな文章であっても読めば読むほどその真偽を確認し、自分の考えと照らし合わせ、様々な思いを巡らせて読んでいきます。

とくに私の場合、三年前から子供たちに対しても教育に携わる機会を設けましたから、(無量育成塾とウェルナー少年少女合唱団)そうした実際の行為空間における発生課題とも照合することになります。

小中学生にとっては、松下良平氏のような教育に関したこと細かい適切な分析が出来るはずもないし、そうした深い洞察などありません。

松下氏が最初に掲げられた「手品師」という題の道徳教材の内容をどう理解するかは、子供も大人もそれぞれの考えが働きひとつの結論には達しないでしょう。それぞれの考えを思い抱く程度で終ればそれで良いのではと思います。

それを結論としてこれが正しいとやってしまえばそれはもう道徳教育ではなく、洗脳かもしれませんね。難しい道徳的内容に対して、教師は固定された考えを生徒に押し付けることなく、むしろ生徒たちの様々な考えを引っ張り出すのを手伝う産婆さんであって欲しいですね。

そういえば、スケートの真央ちゃんのお母さんが大会が始まる直前に危篤になり、連絡が入って急遽大会をキャンセルして帰国されましたがそれがとても話題になりましたね。

こうした判断、大会に出場することがお母さんに対するホントの孝行なのか?大会の試合をかなぐり捨てて母の元に駆けつけるのが真の孝行なのか?どちらなのか?と言う選択肢を人はすぐに考えてしまいがちですがそれはそのときのご本人が決めることであって良いも悪いもないし、どちらにしても悔いは残らないような気がします。

道徳教育でもって国家の統制を個人に対して行われるのは寒気がしますが、かといって、国を憂うことや国の為に働くことそのものが否定されるのもおかしいことです。それは国家あっての個人の生活保障でもあるからです。

やっていけないことは、お国の為と言う大義名分で個人を抑圧してはならないというそれだけですね。個人にとってそれがお国の為か否かは本人が思うことであって、その人の判断は知性、感性、理性に依存しますから、人にはそれぞれのレベルというものがあるのでそれが食い違っても致し方ないことです。

それを一律に、回れ右!で有無を言わさず号令したり、それに従う手法として洗脳的な教育は特定の利益を守る為の教育となり、国家の為の教育でないのは自明です。

金子みすゞ の詩、「わたしと小鳥と鈴と」を読まれた方にはそうしたことに対してなんとなくお分かり頂けると思います。

国家のリスク管理で、もっとも大切なのは『国民の考え』に対しては多様性を持たせるということです。その多様性を持った考えの中から松下氏の言われる『共同体道徳』が育っていけばと思うところです。

その共同体道徳の『道徳』という言葉自体がとても抽象的でわかりにくく、語りえぬものを語らなければならないことになります。

先日、創設したばかりのウェルナー少年少女合唱団が7月から練習を開始し、初めて11月の下旬に会場の人の前に立って歌ったのですが、ステージ外での態度において礼儀・礼節をわきまえているとは言えない事がよくわかりました。

その礼儀・礼節は全体的に言えば会場に入ってから会場を去るまでの間のすべてを指します。(このことはブログ/無量育成塾にも触れています)

今の家庭は、共働きが当たり前みたいで仕事と生活に追われていて、どうも子供の躾が行き届いていないようです。自分のことしか考えていない子が多いのです。

これは、松下氏の言われる市場モラルのところと符号するところかもしれません。

今の低学年の子供にとって大切なのは難しい道徳教育ではなく、ごく当たり前な礼儀を身に付けることでしょう。意外とそれが出来ていない子、わかっていない子が多いことが発足したばかりの合唱団活動で露呈しました。

そうした人との関わり方を、特定の道徳時間でなく、日頃子供たちと接している機会にその場でどしどし躾けをしてもらいたいものです。これは犬の躾と同じですね。もっとも、家庭内での躾が一番だというのは申すまでもありません。

松下氏は、こと細かく色々とお調べになってとても立派に鳥瞰的視点から道徳というものを分析されて問題点を掲げられていますが、最後のまとめとして、『共同体道徳』と『市場モラル』との区分と言うのか、棲み分けと言うのか?要するに分けられているのですが。。。

どうも、そこが引っ掛かるところですね。つまり、前者は『道徳』と言う言葉を使われているのに、後者は、英語の『モラル』をお使いになっています。

何故でしょう?

共同体⇔道徳、市場⇔モラルという言葉のもつイメージがぴったりだったからなのか?

それとも、若干、道徳⇔モラルとの意味の違いがあってそうされたのか?

日本語を英語に翻訳する時、完全な翻訳は出来ないのはみなさんおわかりと思います。

それは、国と国との文化の違いがありますから、当然、それぞれの国に住んでいる人々の概念構成も違ってきます。従って、言葉だけでは語りつくせないニュアンスというものがあります。

それを承知でお使いになられたのなら、共同体と市場において二つの違った"道徳"が存在しないことになります。

しかし、見出しの中で、「せめぎあう二つの道徳」と書かれていますから、おかしなものだなあ~と思いました。

二種類の道徳が存在することになりますね。

見出しを書くのであれば、「「せめぎあう二つの道徳とモラル」とされた方がまだ納得します。

でも、道徳そのものが二つの世界に分かれて在るわけではなく、後者はどちらかと言うと、コンプライアンス的なものを言うのでしょう。

そういえば、『商道徳』という造語があるくらいですから、『市場道徳』があってもそれは、ご自由に・・・いろいろな道徳造語をということになります。言葉は論理空間では幾つでも自由に組み合わせられます。

ただ問題なのは、『共同体道徳』、『市場道徳』、『商道徳』・・・『何某道徳』などが対峙する"道徳"であるような場面が出てくると、ちょっとやっかいになりますね。

どちらが正しい道徳なのか?なんて莫迦げたことになります。(笑)

学者の方は、物事を研究したり調べたりする時、手法として分類したり分析したりされますが、それから今一歩、是非、本質を描いて頂きたいものです。

松下氏は、僕より九つ年下で若いですね。鹿児島県人だから、もし、焼酎で鍛えておられれば、酒も強くて正義感も人一倍でしょう。

期待しています。

by 大藪光政














2011年11月07日(月)

室生犀星の「或る少女の死まで」他二篇を読む

テーマ:室生犀星

書物からの回帰-ローテンブルグ公園

[ ドイツ /  ローテンブルグ城壁内の公園にて撮影 ]

室生犀星の小説に、半自叙伝的な長編『杏っ子』があり、昔、それを読んだことがありますが、現在ではその小説がどんな内容だったのか?まったく記憶にありません。

あとで調べてみると、「舌を噛み切った女」、「随筆 女ひと」といった文庫本も昔読んでいたのか、日焼けした文庫本がまだ書棚に残っています。

小説を読めばひとつなりとも記憶があるものですがどういうわけかありません。ただ、室生犀星が若い頃不遇な人生を送っていたのはなんとなく感じていたくらいです。

詩人としては、「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩があまりに有名であり、これを今の小中学生に朗読させてみると、裕福な生活を送っているのに不思議にも意外とすんなりと受け入れて暗誦してくれます。

しかし、時代と共に生活形態も変わっていく中でこうした感傷的な詩を受け止めていく時、恐らく、微妙にもそうした受け止め方の認識がその時代の人によって違ってくると思います。

それは、今読んでいる野矢茂樹氏の「語りえぬものを語る」の本を読んでいるときに、やはり、そうだろうなあ~と思います。言葉は生活と密着していますから、生活が変わればその言葉の意味も変わってくるものです。

でも、それでも変わらぬ言葉に尽くせぬものが感じられるとすれば、それは詩人とそれを鑑賞する者との交流でしょう。

室生犀星のような不遇な人生は今の殆どの子供たちにはまったく縁のない生き方でしょうが、なんとなく『論理空間』においては想像が可能な情景だと思います。

室生犀星は感傷的な詩人としてはとても素敵な詩人ですね。

そこでたまたま図書館で見つけたこの改版文庫本を手にしてみると、読んでみたい気になりました。それも、タイトルが「或る少女の死まで」というなんとなく感傷的な小説を連想させられたからです。

でも、いざ読んでみるとガッカリしました。とても小説としては不満足な内容です。どうも私小説として創作しているようですが何を目的として書いているのかわからない。わかるのは作家の私生活だけですね。

最初、「或る少女の死まで」というタイトルだったので、或る少女に当然関心を抱きますが、前半は、酒場での自分の喧嘩トラブル事件を取り上げつつ、最初に登場した酒場の結核をわずらった少女みたいな女の子に関心を抱いたのでその子が主人公なのか?と思いきや、なんのことはない、間借りしている同居人の少女であるふじ子についての話が後半に出てくるだけで拍子抜けしてしまいます。

ただ田舎から東京に出てきて四苦八苦している貧乏暮らしの作家である程度の紹介めいた内容小説だったのです。この程度ではお金を払って読むような小説とまではいかないと思います。

福田恆存のきついお言葉の中に、「川端の文学は子供の文学だ!」と、講演中にありましたが、福田恆存に言わせれば、大人の作文かもしれません。

どうもこの小説は画家で言えばデッサンの習作みたいな作品ですね。

でも、少女、ふじ子の死は室生犀星にとってはとても身近な人の死であったし、夭折した少女の人生をとても悼んだのでしょう。最後には、悼詩としてボンタンの詩を付け加えています。

ちょっとがっかりして、この文庫本に収録されている残りの「幼年時代」と「性に目覚める頃」を読んでみましたが、デッサン習作として読めば、「幼年時代」の方が納得できます。つまり、タイトルと内容がきちんと一致していますし、書き方に迷いがありません。

しかし、室生犀星のこうした私小説を読めば詩人の生い立ちがよくわかって詩集を理解するうえでとても参考になります。

そういう意味ではとても勉強になりました。

今でもそうでしょうが、当時として、詩人として生活を築くのはとても厳しいものがあり、敢えてそれに取り組んで行ったのは何故だろう?とふと考えました。

室生犀星の場合は、幼い頃からそうした創作活動が唯一の楽しみであり生きる喜びだったこと、そして、それが大人になっても自分の仕事として継続していったことが一番大きな動機だったようですが、現代のようにいろいろな選択肢が溢れていて生活における楽しみの多様性が広がっている状況下で果たして秀でた詩人があらわれるのかしらん?と思ってしまいます。

当時の生活レベルと現代のような飽食の時代を比較すると、確かに室生犀星の時代で、創作芸術活動をやるのはとてつもない挑戦だったと思います。

しかし、人間にとって何が大切か?を考える時、やはり、己の意志をつらぬける生き方が出来るというのがもっとも素敵な人生でしょう。

室生犀星は苦闘しながらそれが出来たのですから、やはり、人としてとても尊敬するに値します。そうした人は本当にごく稀なのですから。

また、室生犀星という人間を育んだものは何か?と言えば、室生犀星をお寺に引き取った和尚さんの存在はとても大きいですね。

犀星の感性は、故郷の自然が育んだものでしょうが、同じ郷土に住んでいてもそうした風に感化されなかった人々も大勢いますから、誠に不思議なものです。

そうしてみれば、犀星という人の出現は、偶発的なきっかけがあって、それを支えた人々がいて、室生犀星という詩人の必然性を時代が求めたことになります。

また、犀星の詩には今の飽食の時代であってもやはり胸を打つ内容を含蓄している限り、そうしたことに触発される現代人が必ず何処か存在することも事実です。

そうした室生犀星の詩に共感を覚えられる方は、恐らく、己の生き方に強い意志を持って何事も挑戦されている方でしょう。

確かに、この小説ではガッカリしましたが、作家のひとつの作品だけを断片的に評価しても意味のないことがわかります。その作家の生き方にもっと目を向ける必要があります。

室生犀星と己の生き方と照らし合わせれば、如何に己の生き方がまだまだ拙いかを反省するきっかけにもなりました。

by 大藪光政
 
   
 
   
   
   
   
   
   
   
  
  
  
   
   
  












2011年10月13日(木)

塩川徹也 「発見術としての学問」を読んで 

テーマ:塩川徹也

書物からの回帰

[ パリ / ルーブル美術館の庭園にて撮影 ]

建物の中央にトライアングル・ガラスの建物が見えます。

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福津市の図書館における新書購入選定はどのようになっているのだろうか?とふと思ってしまった。

この本を手にしたとき、まだ誰も読んだ形跡の無いきれいな本であった。これは哲学書の書棚にありました。書棚の前で本を手にして最後のページを捲ると昨年の夏に刊行された本でした。

僕は、新刊本を手にするとき大体、前書きとかあとがき、そして著者の略歴と刊行状況をさらっと目を通します。それで本を借りるか否かを最終的に決めます。

もちろん、目次で内容を眺めますが、それだけでは不十分です。せっかく借りたのにはずれだと、いくらただといっても無駄な労力は厭ですからそうします。

塩川徹也氏の経歴を調べてみると、福岡生まれと記載されていました。福岡の何処だろうとふと思いました。歳は僕より丁度五つ上ぐらいですね。こんなことがわかってくると親近感が湧きます。

それで、よし、この本を読んでみようという気になります。(笑)

でも、塩川氏は序章でいきなり『ディシプリン』という言葉を使って述べているので戸惑います。

そこで?となるのです。「-それがディシプリンであろう-」と書いてあるから、『それが』のそれを指すものが前に書いてあるので、『それが』がそれなのでしょうけど(笑)、ちょっとわかりにくい。

念の為、『それが』を書き出してみますと、『学問を修得するために必要な基礎知識とそれを運用する技能』と『目的達成のための手段である方法の複合体』の二つが『ディシプリン』なのですね。

この長たらしい内容をひとつの言葉で表すのだからなんだかわかったようでわかりませんね。不親切な学者だなあ~と思う次第です。

学術論文ならそれでもいいのですが、一般の人に読ませるには無理なところがあります。一般向けに刊行本を出したのならもう少しわかりやすくして欲しいと思うところです。読者をどの程度のレベルの人に合わせるか?によりますがあまり敷居が高いと誰も買ってくれません。(笑)

『ディシプリン』は、英語でdisciplineということであれば、訓練,鍛練,修養; 教練.或いは、訓練法,修業法ということになります。

ここでは、私流に捉えると、学業、学業術と言ったところでしょうか?

別に英語を使わなくて適切な日本語を使えばよいのにと思う気持ちです。

日本語の方が語彙は豊富ですから的確な言葉が選べます。それを英語で言うと著者がどの語彙を指しているのか?時々ボケてわからなくなるときがあります。

そんな調子でしたから、序章を読んでからというものは、この本を後にして、もう一冊借りていた室生犀星の小説でも先に読もうかなと思いました。(笑)

ところが、ここで辛抱して次の第一章を読み始めると途端に面白くなってきました。

序章とは打って変わってわかりやすく興味津々の内容です。

そういうことに気付くと、塩川氏はもっと学者肌を脱ぎ捨てて序章を面白おかしくわかりやすく書けばよかったのに・・・ちょっといかめしすぎる内容だったと感じました。

そうすれば最後まで読めなくても本を買う人がいたのにと思います。でも、そう出来ないところが塩川氏の持ち味かもしれません。

第一章においては、ヨーロッパの伝統的考え方を紹介しています。それは、人間の生活を『活動的生活』と、『観想的生活』に区別する考えがあるとあります。

なるほど、そういう分け方もあるなあ~と思いました。そして、その説明を展開していくのですが、その内容を読むとフランス思想の学者としての狭義の人ではなく、『活動的生活』の意味を実に具体的に説明が出来る方なので感心しました。

たとえば、「仕事の基本的特徴は合目的性にあり、仕事に意味と価値を与えるのは目標なのです。」のところを読めばなんだか、企業における仕事の意味を知り尽くした方の発言みたいですね。

また、その『活動的生活』が孕んでいる第一の問題点として、人間存在の有限性を挙げています。そして次のように畳み込みます。

「人間は、個体としても人類としても、誕生してからある期間生きた後、否応なしに死を迎えます。人生を目的と手段の連関の中で捉え、その意味と価値の根拠を目的の中に求める限り、総体としての人生は、死によって意味を剥奪され、価値を失います。そこから現世を超えるもの、たとえば魂の不死や神の存在への関心と憧憬、つまりは宗教的欲求が生じます。」と続いていきます。

こうなるとワクワクしながら読み続けることが出来ますね。

第二の問題点は、現在と未来の関係を掲げています。その説明においては、次のように現在と未来の関係を述べています。

「活動的生活で人生に意味を与えるのは未来です。こうして受験勉強であれ、老後に備えての貯金であれ、あるいは事業の拡大と利潤の増大を目指す設備投資であれ、目前にあるももの享受を先送りにして、よりよい未来を目指します。未来のために現在を犠牲にする、というのが強すぎれば、担保に入れるのです。そして、これは、自然状態から離脱して社会状態に移行し、文化的生活を営む人類にとっては、事の必然です。」と、現在の切なさというか未来に対する現在のつらい立場を言われています。

なんだか、そう言われると人間は賢くなった為に、逆に己自身を精神的に追い詰めることになっていくのが予感されます。

でもよく考えてみると、未来とは畢竟、現在における仮想の実現構想ですから、現在よりもより良い状況を求めることとか、或いは、このよい状況をずっと維持したいという欲求から未来を想定するのは当たり前です。

元々、未来は仮想ですから実経験の出来ない世界です。仮に、ベストな現在を構築したからといって、必ずしも未来がベストになるという保障はどこにもありません。

それが顕著にあらわれるのが、自然災害による想定外の未来でしょう。どんなに現在を立派に生きていても気が付いたら津波にさらわれてしまった。という未来は想定不可能なことですね。

でも、基本的には現代人はそうしたところがあってもやはり未来に対してビジョンをもって生きていく習性があるから面白いですね。

最後の第三番目は、『他者との交わり』の問題です。

活動的生活においては、当然、社会において組織に組み込まれることもあります。一番良い例がサラリーマンでしょう。つまり、組織の中の歯車になるのですが、ただの歯車ではなく人格をもった歯車だから色々とあるのですね。

その組織の頂点に立つ権力者とその頂点から指示を受ける者との立場の相違における葛藤です。この辺を読んでいくと、人は誰しも他者との交流の中で他者に認められることで生きている甲斐を感じられるということと、もし、指示する立場としての絶対者であっても、その相手がロボットであるとしたら、なんとなくつまらないものになるみたいなことを述べています。

これは指示を受ける相手が生身の人間だからこそ権力者は快感が得られるということでしょう。生身と言う意味は人格を具えているということに他なりませんね。

こんな調子で第二章に入って行ったのですが、どうもこの本は書き下しではなく、今までのお仕事の寄せ集めみたいな内容ですので、話が色々とあって本としてのまとまりはありません。

つまり、分散しているのです。これは読む側にとっては読みづらい感じがします。でも、新聞記事を読む感覚で拾い読みする気楽さで読めばこれもまた楽しいものとなります。

塩川氏のお話を読んでいると、日本人がフランス語を翻訳してパスカルを研究することと、母国語のフランス人がパスカルの思想を研究するとでは、微妙に違ったものになるようですね。それは言葉のもつ本質がお国柄として違うからでしょう。

文中に、「読んだことのない本について考える」というタイトルの記事は面白いですね。題名だけで想像を試みることは読者の皆さんも為されているでしょう。

僕も、本を借りる前にやはり題名に対してのイメージを描きつつ楽しみに本に向かいます。でも、「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を紹介してそのことに触れていましたが、まあ、人生のうち出版された本は星の数だけあるのに、読んだ本は手と足の指の数ぐらいですから、それも、ひとつの手法だなあ~と笑って読みました。

この本は、大きくⅠとⅡに分かれているのに後で気付きました。Ⅰの最後は、「自己充足の夢」と題して、ユートピアについて触れています。

無いものねだりの桃源郷の世界ですが、現代のように科学が発達して情報化社会になると、そうしたものは現実的に存在しないものであることがはっきりとしてきます。

しかし、無制限にお金を使うことができれば、それに限りなく近づけることが可能であることを誰しも理解できています。どうしても望み得ないことは己の生命に対する不死でしょう。

ただ本当に自分の思いのままになることが果たして欲望を満たすことになるのか?とても疑問であることに気付きます。そこには自分の思いのままになるということは、安息であり、それが倦怠となりうることが最後のところで説明されています。

この最後のところを読んでいて、ハタと当たり前のことに気付きました。それは、万物がすべて収斂と分散を繰り返しているということです。

たとえば、先程のユートピアは、人間の欲望に対する収斂みたいなところがあって、それが満たされた瞬間、何も無かったかのような・・・つまり、あるべきものが当然あるというところでの欲望の対象と無なりえないものになる。

それを空虚という言葉では適切ではないにしても・・・そうして分散していき、新たに収斂していくものが現れそれがまた分散する。その繰り返しだということですね。従って、私たちの現在の生身は、収斂されたものですが死ぬことによって分解されて分散されていきます。

脳の病である認知症というのも、厳密に言えば心身ともに分散していく症状と捉えることが出来ますね。

こうした例は、他にも色々とあります。例えば、志を抱いた人が集って企業が出来上がり、膨張していく。この膨張はある意味で収斂なのです。そして、企業の倒産つまり、崩壊は分散となっていきます。しかし、分散ではなく、整理倒産、吸収合併、業務提携、といった存続もあります。でも、いずれ分散していくのです。

そうは言っても、現在も尚、倒産せずに長年存続している企業があるではないか?と言われるかもしれませんが、資本主義の世界になってまだ人類の歴史上わずかな時間しか経っていません。

植物の世界でも、微生物の世界でも収斂と分散が繰り広げられて行きますし、この宇宙全体もそういうことの繰り返し現象が起きています。

では、何故分散と収斂を繰り返すのか?という大きな謎が見えてきます。

分散は収斂があっての分散ですし、収斂は分散があるから収斂する目的を立てることが出来ます。分散から収斂に向かう方向性が目的であるとすれば、収斂が終った時点でその目的を達成したことになりますから、あとは、分散するしかないということになります。

では、収斂から分散に移行するときは方向性がなく目的が無いといえるのでしょうか?確かに分散には方向性がなく破局的な無目的性を帯びていますが目的を持って収斂したものが無目的に分散するというのは、あまりに刹那さ過ぎます。

もし、分散というものが無目的に起きるものであれば、何故、そうなるのか?それは、やはり、なんらかの影響を受けての分散であるから収斂したものには必ず何かとの連関があり、その作用を受けての分散なのですから、目的を持った作用の存在があるのでしょう。こうしたことの繰り返しは「縁起」という言葉で表わすことになるのかもしれません。

つまり、この世の存在は「縁起」によって現象が出現しているということになりますね。

さて、話を本に戻しますとパスカルは、今から約400年ぐらい前の人ですが、過去と現在と未来に関して思索を深めた人のようですが、一般の現代人は普段の生活に埋没してそうした思索を試みる人は殆んどいませんね。

そうした課題は、解けるはずが無いのです。人類の歴史が過去であり、これから過去を作るために、今があるのですが、その今も刻々と過去になっていき、常に未来に向かって時間と共に人類は突き進んでいます。そして、それもまたひとつの収斂であって、いつの日か分散する日が必ずやってくるでしょう。

でも、現在の中に過去と未来が表裏として存在している気がします。

過去にとって現在は未来であり、未来にとって現在は過去でもありますから、とても、時間と言うものは面白い存在ですね。本当に時間と言うものが定量的に存在するものでしょうか?これも疑問のひとつです。

体積というのは三次元ですが体積を圧縮することが出来ます。つまり、体積内の物質を分散から収斂させるということですが、それをある程度行うとその体積は小さくなり、その密度は逆に大きくなります。結果として体積比と質量の相関が保たれます。

では、もし、時間を圧縮することができれば、何が起きるのか?

宇宙は、ビッグバンつまり、宇宙の始まりがあって現在なお膨張し続けているというのが最近の宇宙科学の定説になっていますが、この場合の膨張は一見、分散しているみたいですね。

そうであれば宇宙の始まりはすでに収斂したものが分散を始めたということになります。

そうだとすれば、無目的に広がっていく感じです。そうではなく、この膨張を分散とは考えず収斂して行っていると考えると、今度は、最初が分散していたということになり、ひとつの点から発生したとは考えられません。これも不思議なことです。

時間を圧縮するということは、ビッグバンの初期設定に戻すということでしょうか?

「時間を圧縮するとは、どういうことを指すのか?」が、わかっていないと、先に進めませんね。(笑)

なんだか支離滅裂になりましたが、録画したものを早送りするという問題ではありません。

時間そのものを圧縮する話ですからとても想像を絶する世界です。

時間が定量的に計れるという人類の持つ科学は、本当は人類の錯覚なのかもしれません。

by 大藪光政

   
   
  
 
 
 

 
 
 
  
 
   
 
















2011年09月17日(土)

江川 卓 翻訳 ドストエフスキー 「罪と罰」を読んで

テーマ:ドストエフスキー

書物からの回帰-お見舞いの花

[ お見舞いの花 ]

この小説は、若い頃に読んだ本です。

たまたま、図書館に岩波文庫のワイド版を見つけて手にしたところ、再読してみたくなりました。それは、国立病院に入院することになった時、退屈しのぎに読む本を丁度探しており、再読もまた勉強になるだろうと思ったからです。

この本は、全部で文庫本として全三巻あり、そのうちの二冊は入院中に読むことが出来ました。読むとなると病室は夜九時半から朝の六時半まで消灯ですから病室内ではこの時間帯は無理です。

そこで、病棟の一階にある急患家族用と兼用の手術家族の待合ロビーには煌々とした明かりがありましたから、そのオープンな応接のソファーに座って読み耽りました。

まあ、こんな時間帯には誰もいないわけで、たまに、急患が運ばれてくるぐらいです。とても静かで快適でした。ときどき、交代勤務の看護婦さんが終業時に通られるので挨拶する程度なのと、たまに守衛さんが覗きに来られるぐらいです。

術後、四日目からこうした日々を送ることができました。といっても入院は、わずか九日間のことでしたから本を読んだのは五日間ということになります。

さて、この本を読んでいるとドストエフスキーのあの独特な性格が臭ってきます。彼独特な病的とも思われそうな混沌とした情景です。

ドストエフスキーってとても繊細な小説家だなと改めて感じました。とはいえ、多くの作家は繊細なところを持ち合わせているのは当たり前なことですが、彼独特な繊細さは読者にとって色々と好き嫌いもあるでしょう。

この本を読み進めて行くとすぐに疑問が湧いてきました。何故、主人公のロジオンがあの金貸しの老婆を殺そうと企てたのか?です。その妹、リザヴェータは、確かにその現場に入ってきた為、ロジオンが衝動的に殺害したことは頷けます。

つまり、殺害の動機がお金目的でもなく、ただ彼の思想所以であるといっても、どうも脆弱です。その思想とは、「全人類の利益の為にはしらみのような金貸し老婆など殺してもかまわない」という考えですがただそれだけの考えで老婆殺しに出向くのには作家の想定としてもかなりこじつけなところがあります。

ただ、ドストエフスキーの小説は彼の独特な考えを読者にアピールせんがために、社会、思想、宗教、法律、道徳と様々な角度から考えあぐねて構築したところがあって、この老婆殺しはあくまで彼の新しい発見のアピールに必要な例え話ですね。しかし、例え話というものには必ず矛盾を孕んでいます。そこを気にしなければ納得のいくところでしょう。

この小説は、彼の作品である「カラマーゾフの兄弟」を発表する前の余震みたいなものだなあ~と思いました。エピローグがついているところなんか近似的な構成ですね。

翻訳者である(本名馬場 宏)江川 卓(ペンネームだったんですね)氏は、解説の最後のところで、「これは、読者の好みに応じて、社会小説としても、推理小説としても、恋愛小説としても、思想小説としても、いかようにも読むことができる、世界文学史上でもめずらしい作品である。私自身、たしか中学三年生のころ、はじめてこの小説を読んだときには、むろん作中の哲学論議など半分もわからぬまま、ただ、もう場面場面のサスペンス、筋の意外な展開にふりまわされ、いつかそこにみなぎる異常な雰囲気のとりことなって、息もつげず読み終わったことを覚えている。おそらくそれでよいのだろう。これを読み終わった段階で、自分がある種の熱気を感染させられ、なにか未知の漠とした不安にとりつかれていることに気づいたら、もう一度、いや、二度でも三度でも読み直したらいいと思う。」と、解説の最後を結んでいます。

江川 卓氏は、中三のときにこの本に触れたのですから、やはり、そこには父親の薫陶というものがあったと思います。父親はロシア文学者の馬場哲哉氏ですから、カエルの子はカエルですね。

読んでいくうちに、登場人物のややこしい名前が出てきて、しかも、同一人物でも、愛称で書かれたりするので名前が色々と変わり、最初はちょっと戸惑います。でも、別に登場人物リストを見ればすぐにわかるし、読んでいくうちに話のストーリーからその人物が誰であるかは判断できます。

最初はちょっとややこしいですが、登場人物は限られていますから読んでいくうちにそれもだんだん慣れてきます。たとえば、主人公の場合、「ロジオン」と「ラスコーリニコフ」そして、「ロジャー」と場面場面で呼ばれますから惑わされます。

この小説を楽に読むコツは、登場人物の呼び名が色々変わって行くというのを最初に了解しておけば、話が混乱しないでしょう。

さて主人公だけでなく他の登場人物の発言によっても著者の考えを反映させるのはごく当たり前のことですが、スヴィドリガイロフという人物はドストエフスキーの父と似た風貌があるとのことですが、確かに主人公ラスコーリニコフ (ロジオン)と、近似的なところを匂わせています。

例えば、スヴィドリガイロフの奥さんは彼が殺したのでは?といった疑惑があり、その罪の償いをするために自殺したのでは?と想像させられます。彼がラスコーリニコフの妹ドゥーニャに心を抱いていたというところの展開が最初の好色漢イメージから掛け離れています。

ひょつとしたら、スヴィドリガイロフもドゥーニャに告白したいところがあったのではと、想像します。彼にとってドゥーニャから永遠に愛してもらえないということは、絶望的なことだったのでしょう。だから死を選んだのでしょう。

それに対して、ラスコーリニコフ (ロジオン)には、ソーニャがどこまでも彼を愛し生涯を共にする覚悟でいることが、躊躇しつつもソーニャのまなざしに従ってラスコーリニコフが罪の償いをなした結末と言えます。

生きている以上、愛する相手がまったくいないということ、言い換えると自分が愛している相手から愛してもらえないということが、人間にとってどんなに辛いことかをこの二人を対比させながらドストエフスキーは語り掛けたかったのだろうと思います。

ラスコーリニコフは、最後の場面で警察署内の雰囲気からして逃げ切れると思って、告白を思い留まり警察署を立ち去ろうとしたけれども、警察署の中庭の入り口から遠くないところで真っ青な顔をしたソーニャが祈るような厳しいまなざしでラスコーリニコフを咎めるように見つめていたので、ここで逃げるとソーニャの愛を失うという気持ちが大きく働いたのでしょう。

くどいようですが、彼にとっては逃げようと思えば逃げ切れる状況の中で、良心の呵責があるなしにかかわらず、どうも、愛するソーニャを失いたくないが為に彼女の心に従ったようですね。

「人を殺すことが何故いけないのか?」という疑問よりも、「何故、しらみ同然のような人間を殺してはいけないのか?そうした人間を殺す権利をもつ人間もいるのだ」という具体的課題を持ちかけて主人公を殺人者にしてしまっています。

しかし、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフの理論の是非をそのままにして、罰を分かち合うことができる相手がいるということは、人間にとってはとっても幸せなことだという風に感じさせるようエピローグを読めば伝わってきます。

確かに、愛する相手が犯した殺人罪に対しての罰を共に分かち合うことが出来るそんなカップルなんて、そうこの世にいないでしょう。殺人を犯した段階で、恋人同士なら別れてしまうし、夫婦なら離婚も免れないでしょう。(笑)

人殺しの問題は、宗教や法律そして道徳だけでは収まらないものがあります。国家が特定の個人を殺害した場合、不思議にも罪にならないのですから国家の場合は人を殺す権利を有していると言えます。

その国家にとって不利益又は有害な人物は、国家の機関によって超法規的手段でその個人を殺害することが出来ます。

それはマフィアの組織と同じ行動ですね。自分達にとって不都合な相手を抹殺するというあの行為とまったく同じです。ただ、国家の場合は、「正義」という言葉を立て看板にしています。しかし、何が正義かが問題でしょう。

国家が教育で倫理というものを学ばせる時、それが露見してかなりややこしくなります。

ドストエフスキーは当時の国家や権力者が為す個人に対する殺人を含めた弾圧と、個人による論理的な等価行為との違いについて興味深い想いを馳せたに違いありません。

それはさておき、ドゥーニャもソーニャも、まるで同一人物のように思えてならないのは、ドストエフスキーの理想な女性として美しい心をもった女性を彼は望んでいるからでしょう。そういう意味でドストエフスキーはロマンチストですね。

そんな女性はめったにお目に掛かりませんから、まあ、もし、そんな女性がいたら・・・そんな方と一緒になれたら一生幸せというものでしょう。(笑)

ドストエフスキーのひとつの課題である、「しらみ同然の人間は殺されてもいいのだ」と言う、世の中に利益にならないむしろ悪影響を及ぼす人間を殺してもそれは、犯罪とはならないことが、・・・人を殺す正当性として倫理的にどうなのか?という事になってきます。

ドストエフスキーを読む多くの読者の中から、彼に影響された新進作家が小説を発表する時、彼の小説から得たエッセンスの焼き直しみたいな本を後に沢山出しています。

ですから、最近の若い人はドストエフスキーのような熱をもった混沌とした小説よりももっと身近なそして明快な焼き直しの小説を手にしているようです。

そうした類似本がこの世に沢山出ているから、もう、古典は入らないみたいになっています。古典本を読んでいるのは、本当にごく小数民族ですね。(笑)

でも、この本を読み直して改めて考えさせられたのは、「殺人の正当性」ではなく、「相思相愛が生きる意義として強い」ということでした。

この場合の相思相愛は、現世利益を超えたものとして、唯一、人間らしい理想の生き方であると、ドストエフスキーは思ったのだろうか?

逆に考えれば、何故、相思相愛は現世利益を超えることができるのか?それが不思議ですね。

たとえば、夫婦仲にしても相思相愛だとどんなに経済的に苦しい状況に追い詰められても結構辛抱し、苦を共にできるものです。

ところが、そうでなければ経済的理由でいとも簡単に二人は別れるでしょう。それは苦を共にできない理由が単なる経済的要因で押し潰れてしまったからでしょう。

「苦を共にできる」ということは、お互いの信頼感がとても強くなければ出来ない話です。その信頼感というものは突き詰めれば、ただ相手を信じているということで、それは、ある意味で信仰そのものだと思います。

主人公のラスコーリニコフは幸いにも信ずるべき相手がいて、その彼女もまた彼を信じてやまなかったということですね。そんな風に思いました。信じるということがどんなに強いものであるのかを神がいなくても充分に人間同士でそれがあれば生きていくことが出来るということが言いたかったのでしょうか?

現在の日本は経済的危機と言われつつ、一方、庶民はグルメの番組をテレビで見たり健康番組で食べ過ぎによる病気対策を真剣に見たりすることで日々を過ごしています。、そんな優雅な生活では、お互いをそれほど真剣に信じなくても充分生きていけれると思っていたら、大きな自然災害で突然突きつけられるものがあります。それがこのことなのですね。

人間にとっての生き方とは本当に難しいものがあります。

でも、人生においてそうしたことを考えてみることは意味があることでしょう。

自分にそうした信じるべき人間がいるのか?

そして、その相手も自分を信じているのか?

現世利益を超えてお互い、そう信じて行くことができるのか?

そう思うと、ハッとしませんか?

By 大藪光政






































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