書物からの回帰


図書館の哲学書がある棚に新書が入っていたので手にしてみた。著者のプロフィールを見ると、なんと、石井郁男氏は、すぐ近くの遠賀郡岡垣町に在住されている。福津市から車だと北九州市方面に行く途中であるから、おそらく、約20分程度のところです。


図書館にある本で、著者が近隣におられるというのは、ローカルでは珍しいことでもあります。また、著者の経歴も面白い、高校、大学は九州の名門を出て、小中高で、40年間も教鞭をとり、のちに近隣の大学の講師を務めつつ、北九州森鴎外記念館理事もされているという異色の方です。


この本は、タイトルの頭に、“Q&A” などと付けている調子からして、哲学書関連の難しさとは掛け離れており、なんとなく軽く感じられる。そして、中身の掲載手法も同様に、イラストは楽しいし、書き方も学生が読むに当たっては、入りやすさがある。恐らく、教師としての立場において、高校生にも親しんでもらいたいという意図が見えてくる。だから、この本を読むことで、誰でも無理なく、哲学の流れが哲学者の逸話と共に楽しく理解できる。


今でも私は敢えて、哲学とは何か?と時々、自問することがありますが、これは、自身の成長と共に微妙に解釈が変わってきていることに気付きます。そんなとき、やはり、その歴史を振り返ってみると面白い気がします。


たとえば、いつから哲学が学問として始まったのか?とか、学問としての哲学がなくても、人類が哲学というものを知らないうちに、そうしたものを体得したのはいつごろか?とか、ベルグソンのようにヘーゲル哲学を知らなくても、すごい考えの発想を見出せるのは何故か?といった 『?』 の世界を駆け巡るときに、哲学史の認識が必要になってきます。


本書は、前書きとして、孔子の言葉を引用しつつ、石井氏のこれまでの歩みと想いを簡潔に振り返りつつ、十四人の哲学者を取り上げたと記しています。自身を飾ることなく率直に書かれているので大変好感が持てます。


第一章では、古代ギリシア哲学のタレスを筆頭に紹介しています。当時、哲学をする者は、哲学が職業とまでには至っていないし、本業をやる過程から出た派生的な取り組みみたいですね。しかも、それが哲学とは誰も認知していないようです。現代の視点でみると、やはり、タレスの場合、天文学とか数学の有識者といった方がよいようです。


彼のその専門である天文学や数学は、エジプトで毎年定期的に発生する洪水対策や、ピラミッドなどの建築事業において必要にせままれて発達したものですが、そうした役立つ論理的な理数的な考え方を体得することで、物事の道理を思考する姿勢に大いに影響したと考えられます。つまり、万物の根源についても科学的思考をめぐらせるタレス、そして、人間に対する観察と思考に取り組んだソクラテスによって、ついに哲学の歴史が明確に始まって行ったことが改めてよくわかります。


現代は、どちらかというと、また再びタレスのように、科学的思考優先の時代になっているようです。それは、唯物的な追求は、まだまだ、我々の生活をより豊かにするであろうという期待と必要性を現代人は感じ取っているからでしょう。


それに対して、人の心そのものに対する追求は、マンネリ化していて、堂々巡りみたいなところもあり、いつの時代も、人間のやっていることは同じであるというところから、研究してもあまり新しいことはパッとは出てこないし、どちらかというと宗教人や、学者任せになっているので、一般人には関心のないところなのかもしれません。


以下、プラトンからヘーゲルまでは、西洋哲学の発達をすんなり受け止められますが、この間、木田元氏の「反哲学入門」について書いたように、ニーチェを起点とした 『反哲学』 という見方があるようで、それが少し気になってニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」を、ボチボチ読んでいるところですが、このニーチェが哲学に嵌ったきっかけが、古本屋で偶然見つけたショーペンハウェルの 『意志と表象としての世界』 だと石井氏は書いている。その時のエピソードとして、ニーチェは、「・・・・私に、"この本を持ち帰れ”と囁きかけたのがいかなるデーモンであるかは知らないが・・・」という話も載せておられる。


まあ、そんなに古い時代ではないから、本当にあったニーチェの話だとは思いますが、こうしたニーチェがショーペンハウェルに大きな影響を受けたということは知りませんでした。ヘーゲルの陰でパッとしなかったのでさぞ"クサッテイタ”だろうと想像されるショーペンハウェルの"遺志"というものをニーチェが受け継いだことになるのかな?そうなると、ショーペンハウェルの 『意志と表象としての世界』 を先に読まねばならないかな?とは、思いましたが、「ツァラトゥストラはこう言った」を読み始めたところなので、まあ、逆進の読みもいいか!と割り切りました。


後半になりますと、なんと、ダウィーン 『種の起源』 が紹介されています。一見、哲学の歴史という意味では、ダウィーンを取り上げたのは、不思議な気がしますが、発生学としての進化論である 『種の起源』 は、皆さんも良くご存知の通りですね。ダウィーンは、哲学に限らず各界の分野において大きな影響を与えたことはご承知の通りです。だから、この掲載は、やはり、教育者としてはとてもうまいですね。 そのダウィーンは、『人及び動物の表情について』 といった本なども書いていて、人や動物心理学まで研究していたということを紹介されていますが、これも驚きでした。


やはり、真の科学者は、すべてにおいて探究心が旺盛だなとつくづく思った次第です。あと、マルクスは弁証法的唯物論の哲学を社会、歴史に用いて、経済学というものの存在を大きくさせた功績があり、哲学者というより経済学者として位置づけているのは、頷けるところです。


あと、プラグマティズムとしてのデューイが、教育現場における手法の導入ということで、実験的取り組みを行ったことについては、石井氏も教育者としてデューイを大いに研究されたことだと思う。


私も、無量育成塾なるものを設立して、試行錯誤を行っていますが、教育というものは、年齢に応じて処方箋を出さなければならないし、『目覚めた人間』 に成らせるには、やはり、まず本人の自主性を如何に早く目覚めさせるか?を考慮しないといけないからとても難しい。そして、それには、モチベーションを上げさせるということでデューイの手法は良いかもしれない。又、低学年に自己のコントロールを養わせないと、高学年になると手に負えなくなる。つまり、動物と同じで野生化しないように導かねばならない。だから、低学年の教育は大変だ。大体、親がしっかりしていれば、子もしっかりしているから、やはり、究極は、家庭教育でしょう。そこを、週一回しか、出会わない塾生を指導するのは至難の業だと思う。


この間、朝日新聞の朝刊に、 『国家の品格』 を書かれた藤原正彦氏が読書関連に寄稿されていましたが、それを読むと、一番の学習法が、本を読むこと、図書館に通えば、塾など行く必要はないと言われている。まったくの同感で、塾生には、「本を読まなければどんな塾にいってもだめだよ!」と言っている。


哲学の歴史を一通り読み終えてみると、石井氏も、最後に改めて読書本の薦めとして、漱石からデューイまで、わかりやすい本の紹介をされている。真の教育経験者は、本当に熱心な方がおられるなあとつくづく思った次第です。この本にしても、高校生にもわかりやすいように書かれているし、イラストもあってとっつきやすいと思う。逸話も交えた内容であるから、哲学に関わっていない大人が読んでも、きっと面白いと感じるに違いない。近隣に、石井氏のような方がおられるのは、地方の教育界にとって心強いことだと思います。


しかし、当方の塾生は、現在のところ、一期生だから、まだ、小中学生なので、直接哲学の話はムリなようです。現在は、哲学の代わりとして、俳句、短歌、詩を引用して授業を進めています。ですから、たとえばこの本のように、「詩の歴史」といったタイトルで、わかりやすく書かれたものがあると教材になるのになあ、と思ったりします。


池田晶子さんは、『14歳からの哲学』と言う本を書かれましたが、この年頃だと、まあ、しっかり、本を読んでいる子は、読み通すことができるかな?と思いますが、そうでない子は、ちょっとムリかな?とも現場を通して感じているところです。


塾を始めて気が付いてみると、本業の得意な科学技術の分野を教えることはなく、苦手な文系の分野ばかりを扱っているので、こんなはずではなかったとも思いつつ、国語力が大切だからと、辛抱して自分の勉強と思って取り組んでいます。


塾生には、「ただ読むだけでは、効果半減、書くことでより一層、力になる。」と、言っていますが、その言質の背景には、まずは、『己自身から始めよ!』 と、思い立ち、近年から、読書を再開し、ブログを書くと言う習慣を身に付けるというのが、実はこのブログのはじまりなのです。つまり、自分で 『ためしてガッテン!』 という、実証主義なところがあります。やはり、理系の発想かな?さてさて、その成果は出て来ているのでしょうか?(笑)


by 大藪光政