書物からの回帰-夏のゆり


岡倉天心といえば、日本の近代美術界においてフェノロサとの関係や、日本美術と日本文化を世界に広めた啓蒙者であることは中学校の美術授業で、すでに皆さんもご存知の通りです。しかし、天心の著書に目を通すのはこれが、初めてです。この本の巻末にも、天心は、どちらかというと行動派なので著書は少なかったと記されています。 その行動派の言い分を、今の時代になって楽しく目を通させてもらった。


内容としては、第一章の「アジアの夜」から第十章の「日本と平和」までが綴られており、江戸幕府から明治維新における日本の内情と日本という国の文化とその人びとについて詳しく冷静に客観的に分析されています。


これらの話の大半には、同感と同時によくフェアに観察しているなと、感心してしまいました。また、日本人の特質をよく摑んでいるのには、流石に世界を知っているからこそ出来る考察だと感じ入った次第です。


ほとんど、同意できた中で、例外としてわからないことが、ひとつあります。それは、朝鮮と日本との関係です。現在では、対日感情といえば、中国や韓国の人びとの日本に対する気持ちを指しますが、それほどに日本は侵略国家として憎まれているわけですが、この朝鮮における日本の歴史的背景に触れられているところで、初耳だったのが、次の一節です。


「朝鮮の考古学的遺物はわが国の古代古墳から発見されるものとまったく同種類のものである。朝鮮語は、今日でも、アジア諸言語のなかでもっとも私たちの言語と近い。わが国最古の神話では、皇祖天照大神の弟であるスサノオノミコトは朝鮮に移り住んだと伝えている。朝鮮の最初の王である檀君は、スサノオノミコトの息子であったと考える歴史家もいる。」と、述べている。


確かに、日本は海洋国家であり、朝鮮との往来からしてもっとも近い隣人であるし、血縁関係も深い。だから古代においては朝鮮半島を日本の領土とみなす考えもあったようだ。日清戦争や日露戦争を引き起こした背景には、中国やロシアの侵略に対して、日本が毅然として我が身の危機として立ち向かったのは当然の回帰であったとしている。


韓国に、慶州国立博物館がありますが、そこに三十年前に訪れたことがあります。見学すると、なんと、日本文化の原型がたくさんそこにあったのです。伝来からすると中国から朝鮮、朝鮮から日本という流れが自然なのは、歴史を勉強していれば当たり前のことですが、それでも博物館の展示物に、直に対面すると、なんだか、いにしえの兄に再会した気分になりました。


そのときは、とてもカルチャーショックというよりも、朝鮮に対するイメージががらりと変わりました。今日では、韓国との交流は若者間でも、ごく当たり前の対等な関係にありますが、三十年前は、まだ、朝鮮人を蔑視した風潮が日本のムードとしてありましたから、それが、大きく覆されたのです。


韓国の一般市民は、当時の日本人が思うのと違って、とても礼儀正しく謙虚です。日本にいる韓国人よりもとてもおとなしく親切だったのは、出会った人だけがそうだったのでしょうか?仏国寺でお参りをしているお年寄りの大きく手を合わせて参る姿は、とても美しいものがありました。信仰するということによって、こんなに美しい姿になるのかとさえ感じました。


そんな気持ちになってしまって、逆に、古代からの親密な付き合いの中で゜、朝鮮から日本に渡って帰化した多くの日本人と朝鮮人とが、どうしてこんなねじれ関係になってしまったのか?わかりません。やはり、似て非なるものとしての民族間の対立なのか?と思ってしまいます。


日本の運命は不思議なもので、東洋で唯一、西洋の文化を熱心に取り入れ、そして、その力をつけたところで、今度は、アジアにある資源の覇権を巡って、西洋を相手にしてしまったところにありますが、アメリカにはかなわなかった悲劇が、不幸中の幸いとして、今日の平和国家として存在している。


だから、徴兵制度もなく若者は自由の身である。しかし、経済大国日本も、韓国、中国などに技術の面でも接近されていて苦戦している。液晶とメモリーはすでに、韓国の手中にあり、日本は完敗である。親日の米国は、最近は、日本よりも中国や北朝鮮の方ばかり気にしている。


岡倉天心が、今、もし、生きていたらどんな風に日本を分析し、どういうアドバイスをするだろうかしらん?と思う。現在の日本の中小企業はとても苦しんでいる。付加価値を生み出すことが出来ない企業は皆、中国に仕事を取られている。大手企業の下請け仕事も世界不況で仕事がない。このまま、これが2~3年も続けば、中小企業もある程度淘汰されるであろう。一方、世界のシェアを技術で握っている中小企業も中にはある。でも、日本国内の不況が依然として続いているということは、トータルとして、やはり、世界の日本は厳しい立場にある。


どこもかしこも、問題が多々あると思われるが、天心の分析による、江戸幕府と明治政府における政治形態、それを変革して動かす人材の如何によって日本は大きく変わったのだという実証からも分かるように、やはり、今も政治家の手腕で日本の将来が決まると云わざるを得ない。


しかし、今年の夏の衆議院議員選挙による政治家の動きを見ていると、本当に大丈夫か?と思わざるを得ないような議員、そして、各党が作成したマニフェストの中身などがある。つくづく閉口してしまう。議員の多くは文系出身ばかりである。もう少し、理系の議員が増えてバランスがとれると、少しは論理的なまともな考えが出てくるかもしれない。各マニフェストには、目先のニンジンとしての実数や将来の虚数しか、書かれていない。複素数の数式が何故か欠落している。勝負に勝てば、掲げた内容の実行において具現化出来なくても、言い訳の得意な政治家にとっては問題ではないのだろう。


民主党の鳩山議員は、理系だがペーパードライバーの理系出身といったところみたいだ。会社で鍛えられた生え抜き出身ではない。でも、理系は理系だ。立派なロジックを持っているに違いない。もし、民主が大勝すれば、自民の麻生太郎総理の仕事を引き継ぐことになる。どれだけのことが理系の頭で出来るのかが見物である。失敗したら理系の恥ということを頭に入れて掛かって欲しい。


選挙中、テレビの麻生太郎氏のコマーシャルは、どうもいけない。苦味潰した顔で最後まで訴えている。最後は、笑顔で結んで欲しい。母の実家が飯塚であるから、同郷の太郎氏の動向にも気掛かりとなる。


実は、母方は飯塚の鯰田にある皇祖神社に血縁関係があり、、麻生家に対しては昔から親族やその地域も含めて、一目を置いている。ところが、父方は、筑後市の玉垂神社に血縁関係がある。そして、父が実家の火事で東京から大学を中退して帰ってきたとき、ブリヂストンの創業者である石橋正二郎に請われて入社したが、結局、父は、嘉納治五郎から習った講道館柔道を続けたい為、警察官の道を選んだ。会社を辞めるとき、石橋正二郎が家まで慰留の説得に来られたという話を父から聞いている。


こうした私的な背景から、鳩山氏、麻生氏のどちらも応援してあげたい気持ちだが、問題は、やはり、二大政党のどちらかが、政権を運営することになるから、そうはいかない。小泉さんの言うように、たまには民主党に政権を任せたらという発言も、納得のいく小泉さんらしい面白い発言だと思う。


しかし、日本が将来どういう方向に進むかについては、選挙に及んで、兄弟、親戚などの縁故も糞もない。日本をきちんとしたレールに乗せる人物がよい。大切なことは、日本人こそ世界で一番、理性と慈悲の心をもった民族であることをきちんと行動でアピール出来る人がリーダーとして立つべきだろう。逆に、リーダーになってから、色々とスキャンダルが出るような人物ではお話にならず情けないことになる。


もう、いい加減に唯物的な西洋の悪いところをきっぱりと捨てて、いにしえの日本の美徳を復活して欲しい。いやいや、いにしえを超えた別格な美徳がもてる国になって欲しい。しかし、これは、人の心の問題であるから政治家だけでは無理な話である。マスコミや文化人の役目だろう。そのマスコミが問題である。昨今のようなテレビの低俗番組をどうしたものかと疑問に思うし、大変呆れてしまっている。


どこのチャンネルを替えても、毎日のように、おいしいものを食べる番組だとか、芸能人のつまらない駄洒落で笑いを取っている番組、そして芸能人のスキャンダルを元検事や元裁判官出身が解説しながら、毎日のように繰り返してのしっこい報道が多いこと!本当に呆れてしまう。大衆テレビ番組を指して「一億総白痴化」と言った大宅壮一氏の格言は、何故か?今日の成熟したマスメディア社会において益々、真実味を帯びている。


観る価値も無いテレビ番組が多いのに、うちの悪妻は、自室のテレビの調子が悪いので (最初だけ、すぐに画面が出てこない) この際、エコポイントもあるし、買い替えるよう要請している。確かに、いつも家にいる悪妻にとっては、貴重な遊びのツールであろう。まあ、派手でない女だから、せめて、テレビで派手なタレントの衣装でも観賞してくれれば、安くつく。そして、贅沢なグルメでもないので、番組のご馳走でもタント、指をくわえてバーチャルな食事をすればいい。そうしてみると、テレビも本当に安くつくものだ。(笑)


岡倉天心がもしあの世で、現在の実情日本を知ったとしたならば、何というだろうか?決して、褒めてはくれないような気がします。それは、天心の思い抱く日本とは掛け離れた、唯物的な嗜好などを貪る国民になってしまった仰天すべき実態がここにあるからだ。でも、まだ、少数派ではありますが、しっかりと日本の伝統である精神を引き継いでいる方々もおられますから、そうも見捨てたものではないと信じています。


ここで、何故か?ひとつ疑問があります。それは、日本には哲学者が、大学やその他で、結構の人数がおられるはずですが、そういう方こそ、今のような閉塞感の時代に、声を大にして何故立ち上がらないのでしょうか?


しかし、今、読んでいる「哲学は人生の役に立つのか」の著者である木田元氏は、『はじめに』 のところで、「哲学の勉強なんかしてなんの役に立つのですか?」と、真面目そうな学生に聞かれて、こう言われています。「いや、なんの役にも立たないよ。役に立つ講義を聴きたいのなら、ほかの科目を選んだほうがいいね」と、答えたそうです。


そして、こう、付け加えていました。「私は、 『役に立つ』 ということを社会の役に立つ、世のため人のために役に立つという意味に理解し、そういう意味では 『哲学はなんの役にも立たない』 と、答えたつもりです。」と、言って、この話は続きます。


これを読んで、私は、しばし、首を傾げました。


そして、本当にそうだろうかと考えました。


このことについては、色々考えてみました。哲学というものが本質を知ることであれば、その時代の人々に対して、誤った物の見方をして、それが世の中にとってとても不遇なことになるとわかっていたならば、黙ってそのままにしておくべきものだろうかと考えてしまいました。


哲学者がどこまで社会と己の学問とを関わらせるかは、難しいところではありますが、それにしても、目の前の人々の不遇に対して目を瞑ることが哲学者としての理性なのか?と疑問に思うのです。


学問をいたずらにただの道具として学ぶのは如何か?とは、思いますが、本当に間接的にもまったく役に立たないものなのか?という疑問は消えません。


この話は、木田元氏の書物を読み終わってから展開したいと思います。


by 大藪光政