書物からの回帰-お盆の花


竹内整一氏の「おのずから」と「みずから」を読んでいるときに、図書館でこの本に出合った。開いてみると、面白そうに感じたので持って帰った。< 正確には、借りて帰ったであろう。 (笑) この本は、2007年に出版されている本であったが、手にした本は、まだ誰も開いていない新品本である。著者紹介を見ると、なんと2007年に死去と記されている。肩書きは元北海道大学名誉教授となっている。


あとがきの日付は、2007年7月と記されているから、これは、宇都宮氏最後の置き土産であろう。二年後の7月にこの本を手にするとは、また何かの縁である。 決して、『みずから』 求めたのではなく、『おのずから』 この本が私のところにやって来たのである。不思議といえば不思議である。(まだ、竹内整一氏の影響が残っている) (笑)


この本に関心を抱いたのは、タイトルが 「人間の哲学の再生にむけて」 となっていることであった。何故、 『再生』 なのか? 『人間の哲学』 をどうして再生しなければならないのか? 『再生』 しなければならないほど、行き詰まっているのか?それとも、もう陳腐になってしまっているのか?と、次々におのずから問いが出てくる。また、付け加えるように、表紙には 『相互主体性の哲学』 と、記されている。この本は、最後の章に、『相互主体性とその世界』 として最後を締め括っている。


宇都宮氏は、あとがきで、「・・・『私 (自己) とはなにか』 という問いと 『人間とはなにか』 という問いは、これまでいずれも哲学の重要な問題として問われ続けてきた。しかし、この二つの問いがそれぞれ別の問いとして分離されてしまうと、いずれも哲学の途を踏み外す危険にさらされることになる。 『私とはなにか』 という問いだけ固執すると、そこから自我中心的 、独我論的な世界解釈が出現し、自我と他者を含む人間の世界が見失われがちになる。他方、『人間とはなにか』 という問いは、そこに 『私とはなにか』 という問いが脱落すると、人間をたんに類として捉え、社会学や生物学の研究対象とするといったような科学と同じレベルの論議に追い込み、哲学の途は断たれてしまう。哲学にあっては、この二つの問いはつねに不即不離の関係にあると見なければならない。そしてこの二つの問いを結びつけるには、人間をまずは、 『自己』 と 『他者』 の 『間』 として、つまり、人 『間』 として捉え、しかも互いに相手を自己の客体として扱うのではなく、互いに相手を自立した主体として扱うことがいかにして可能であるかを問う必要がある。私が 『相互主体性の立場』 とよぶのはこうした哲学の立脚点であって倫理的な諸問題も、この相互主体性の場に注目することではじめて 解明可能となるであろう。・・・」と、少し長くなりましたが、そのように述べられています。


このあとがきを読むと、宇都宮氏がこの本の結末を、『相互主体性とその世界』 にもって行こうとしている理由がよくわかります。つまり、この本は、古典としてのソクラテスの哲学と現代哲学としてのハイデッガー批判を含めて照査し、そこから「人間とは何か」という問いから「自我と他我」へと進み、『相互主体性とその世界』 で終わっています。


最初に、この本の第一章が、『 哲学の原点をたずねて ― ソクラテスの場合 ― 』 と、題されて哲学の源流であるソクラテス哲学とそれにまつわる話で展開されていきますが、これは哲学に関心のある方ならすでにご存知の内容ばかりですが、私の場合、ソクラテスが神に対してとても敬虔な態度をもっていたということをここで初めて知り、意外な気持ちを抱きました。


ここでは、哲学の源流であるソクラテスについて話が進められていきますが、『哲学』 とは、何か?というあらためての問いから、『哲学』 と 『哲学者』 との関係の話が始まる。ここのところは、理解しやすい内容であり、読んでいても面白い。例えば、ローティによる「哲学というなにかひとつのものが実在しているわけではない。・・・たとえば書店で、『哲学』 というレッテルを貼られた棚に並ぶ本がすべての哲学の本であり、そのなかで語られていることがすべて哲学である、ということになろう。」と、人を喰った話も楽しい。


様々な学問の中でも、こうして、哲学というものが、『哲学』 そのものに対して 『哲学』 とは何かと真剣に自問すること自体がすでに哲学であると言う本質を独自に持っている。小説家が、『文学』 とは何かなどと、しばし考えることはあっても、本質は作品を生み出すことであり、とことんそれを研究することはない。科学者も 『科学』 とは何かと研究する莫迦はいない。


つまり、哲学に限っては、あらゆる対象に対して懐疑を抱くことで本質を求めていき、それが学問として成り立つ。古代においては、そういう意味で幅広い分野に対して問いかけをしていったが、しかし、近代における科学などのように、他に分科された学問が著しい発達をすることで、より効率的に諸問題の謎が解明されていき、庶民にとってもその成果を得ることでそれなりの価値を認めてきている。それに対して逆に哲学の役目としての探求対象は徐々に実証できないもの、形而上的なものへと突き進んでいく。従って、現代において、市井の人びとにとっては、疑うことのない無縁の問いに対して学究を進めるものだから、益々哲学が他の学問と比べて一般庶民と大きく乖離していく。哲学が啓示するところの試みの最大の弱点は、俗人に対して実証できないということにつきるのかもしれない。


ハイデッガーに対する章では、不勉強な小生にとって、辛い読み処で論理的には難しいが、感覚的には、読んでいてなんとなくわかる内容ではあった。その中で、「前期ハイデッガーの 『学』 の理解」というところを読むと、前記の 『哲学』 とは何か?においてもそうだったように、そもそも、哲学は 『学』 といえるのか?という疑問もこれまた面白い。ハイデッガーは、『存在と時間』 を執筆する時期にいたっても哲学は学であるという立場を捨てていなかったと宇都宮氏は言っているが、逆に、それでは、『学』 とは何か?と、問わねばならない。だから、哲学はややこしく、ねちっこくなる。


そこで、ハイデッガーの 『存在と時間』 で、『学』 が主題的に扱われているところでは、『学』 とは、「真の、すなわち妥当する諸命題の基礎づけの連関である」と、規定している。この近辺は、読んでいても、分かりにくいところである。最後の辺で、ハイデッガーは、フッサールと同じように「世界観哲学」なるものを斥け、哲学が 『存在の学』 として 『学的哲学』 であることを強調しているが、次のステップで宇都宮氏は、『存在』 は 『学』 の対象とはならないと批判している。つまり、ハイデッガーの 『存在の学』 そのものがある意味で挫折しているといっている。


近代の 『学』 に対する位置づけとして、次の面白いハイデッガーの言葉を引用している。 「近代の学は、特定の対象領域を企画することに基づき、それと同時に分化する。これらの企画は、それぞれに対応した、厳密さによって保証された手続きにおいて展開する。そのつどの手続きは、企業のうちで整えられる。企画と厳密さ、手続きと企業、これらが相互に要求しあって、近代の学の本質を構成し、学を研究に仕上げる。」 という内容を読むと、『企画』 だとか、『企業』 だとかいう言葉が、唐突にして近代の 『学』 での説明に入っていますが、ここを読むと、どうも、大学で研究されている多くの科学系の学問が産学協同として、今日、馴染まれていくのに対して、何故か?文科系の哲学は馴染まないということは、やはり、哲学が他の科学系の学問とはかなり違っているということになります。( 文学や倫理学も哲学に近いでしょう。) すなわち、学問には、生産性或いは、向上性、もしくは利便性のある学問、言い換えると実証性があり成果が誰にでも認められる学問と、非生産性で一見、日常にて直接的には役に立たつことのない論理或いは真理を求める学問、言い換えると手にとって見ることの出来ない実証性のない、そして、庶民にはその価値が理解出来ない学問、の大きく二つとがあるということでしょうか。


あと、『技術』 についてのハイデッガーの見解がありますが、この辺を、科学者や技術者がこれを読んでどう思うだろうか?と思い浮かべてひとりで笑ってしまった。


第三章では、「人間とはなにか」という問いが待ち構えている。この問いは実に深刻な問いである。「存在とはなにか」と言う問いは、「無とはなにか」、「有とはなにか」と同じで、抽象的で形而上的な話になってしまい、問いを発しても、決して答えられないものであることがわかっているから、今更、まごつかないが、「人間とはなにか」の 『人間』 という言葉は、過去、現在、未来の世界に存在する人間を指すから、その実在 『していたもの』 、『しているもの』 、『していくであろうもの』、が何であるか?を問われると、どうしても、生物学的な見地、社会学的な見地、歴史学的な見地、といったあらゆる方向から説明を試みようとする。しかし、数多くの説明ができてもそれがすべてではないことを悟る。


宇都宮氏は、ここで哲学としての問いとして、「科学的人間像と哲学的人間像」から、「人間の識別」、「人間の本質」、「人間の人間性」などと、話が続き、ついには、「人 『間』 性としての人間性」という話に入っていく。


この辺りは、大変興味深いところである。 『人間性』 と言う言葉には、よく、『倫理』 というやっかいな言葉がつきものである。そこで、『良い人間』 と 『悪い人間』 という識別は、ある意味で価値評価であるといっている。それは、そうだろう。その『価値』 というものには、効用価値、美的価値、倫理的価値というものを挙げてきている。これには異論は無い。そこで、倫理的価値については、人間のみが適用される価値であるという。それはそうだ、犬や猫の行動に対して、倫理的な行為などとは決して言わないだろう。


宇都宮氏はそこで、こういっている。「人間の人間性は、それ自身が倫理的評価の対象であるのではなく、むしろそうした倫理的評価の規準の役割を果たしていると考えられる。」と述べ、人間の行為に対しての評価判定としてだけの倫理的評価の存在であるとしている。だから、もともと、そうした倫理評価が出来るものをその人間性の中に所有しているわけではないし、それを喪失したりするものでもないと言っている。これも、そうだなあと思う。


人間の振る舞いには、本来、そうした評価の対象とならない倫理的に無記な振る舞いもあり、倫理的評価の対象となるのは、たんに自己にのみ関わる振る舞いではなく、他との関わりをもつ振る舞いなのだと宇都宮氏は言う。


そして、和辻哲郎の表現をかりると、「倫理の問題の場所」は、「人と人との間柄」にあるといって、「人と人との間柄の問題としてでなくては、行為の善悪も義務も徳も真に解くことができない」と言うのは、至言であろうと、宇都宮氏は言い放っている。


しかし、この和辻哲郎の発言はすべて正しいでしょうか?果たして、倫理的な評価が、人と人の間柄だけに適用されるものでしょうか?人が犬や猫、或いは野生動物に対して救いの手を差し延べる時、或いは、自然の環境を守ろうとする時、人対犬、人対猫、人対野生動物、人対山や川、といった対象物に対して、そうした人の思いやる心の動きがあったとき、それは倫理的な評価として扱われないのでしょうか?


それとも倫理が、「人と人との間柄」にて問われるべく問題であるということから、前記の自然物に対する思い遣りも、「人と人との間柄」にてこそ提起されてくる問題であるから、、「倫理の問題の場所」は、「人と人との間柄」となる。と、言いたいのでしょうか?


そうであるとすると、例えば、無人島に流されたたった一人の人間が、死ぬまでそこで一人で暮らす時、その島の動物を意味なく己の憂さ晴らしの為に虐待をしても、そこでは、「人と人との間柄」の関係は成立せず、倫理評価の対象にはならないというのでしょうか?それとも、そのことを後で知った人間との間で成り立つと言うのでしょうか?


その善良な行為か悪意ある行為かを、評価し合う時は、確かに、「人と人との間柄」でのことではありますが、それ以前に、倫理的な評価が存在していないのでしょうか?もし、倫理的な評価が「人と人との間柄」にて、生まれるものであれば、人は十人十色ですから、時代においての倫理的価値は道徳と同じで危ういものとなります。


ただ、倫理的価値というものが、人間の人間性とは、別に離れて存在していて、それが絶対的なものであるなどというのもどうだろう?とは思います。もし、そうだとしたら、どうして、そんなものが元々存在しているのか?とても不思議なことになります。また、それが、絶対的なものではないということであれば、何かに依存していることになります。すると、その依存されている仕組みも謎ですが、その仕組みが常に有効に働くのかも疑問です。

宇都宮氏が持ち出した 『相互主体性』 については、「サルトルによる相互=主観性の否定」の説明から、『主観性』 と、『主体性』 の言葉のもつ意味から、熱心な論議が繰り広げられます。


『相互主体性』 は、フッサールの 『相互主観性』 とは、まったく違ったものであることを言われていますが、宇都宮氏の説明は、次の通りです。「相互主体における 『主体』 は、間主観性における認識の 『主観』 からは区別される。主体とは、なによりもまず、行為の主体であり、他の主体に対する行為の主体である。」


つまり、近代から現代の哲学は、主観性を重んじてきている。それに対する批判のようである。 『主観性』 は、ある意味で、閉ループの思考であるから、そんなところから脱構築したいのであろうか?


「行為と価値」の話になってきたところで、宇都宮氏の専門分野であるカントの哲学を引用してきているが、その話自体は大変興味深く面白いものである。その意見は、次の通りである。


「われわれは、ここに、行為に関するカントの実践的思索が相互主体性の問題と触れ合う場所を見いだすであろう。行為は、それが自己の人格のみならず、他者の人格をも目的それ自体として扱うときに、倫理的価値をもつ。定言命法によってなされるべきであるとされる行為は、そうした行為である。先に見たように、怜悧の命法に従う行為は、他者を自己幸福という目的のための手段として利用する行為であった。」


この話を聞けば、「それもそうだな・・・とても素晴らしい考えだな・・・」 と、感心はするが、この辺の話が正しいとすれば、過去の多くの歴史的権力者は如何に、非倫理的な人間だったことか?ということになり、それに否応なしに従った人々が築き上げた歴史の否定とはならないだろうか?まあ、権力者でなくても、ごく普通の人間においてすら、倫理的であったり、非倫理的になったりを人生のうちで繰り返していくものだからそこまでは考えなくてもいいのかもしれません。


また、現代においても先の論理でいくと、社会的な 『組織』 は、組織内の人間、又は、組織外の他者をも含めて組織の繁栄という目的のための手段として利用する行為も、畢竟、同じ扱いであるからして倫理的価値をもたないということになり、 組織悪としてみなさなければならない。しかし、それでは、社会が成り立たないのではないか?


また、個々の人間同士が、対等の立場として互いにその主体を自己の目的 (自己の幸福) の為の手段としてではなく他者の目的それ自体として扱う行為を推奨することは、以前、トルストイが 『人生論』 でくどく言っていた己の幸福ではなく、他者の幸福を具現化させる行為とその考えが似ており、それなりにわからぬではないが、もし、その他者が邪悪な人間であればそういう行為は成立しない (相互主体性の不成立?) と思うし、その意味では、やはり、善良な人々同士のみで通用する狭義の論理ではないかと思う。


つまり、他者によりけりということになる。そうであれば、キリスト教がいうところの「汝の隣人を愛せよ」ではないが、その 『汝』 が一体誰を指すのかで、その 『汝』 が問題にもなってくる。そのことは、「応答と敬愛」のところで詳しく語られている。しかし、なんだか、いい意味で哲学が信仰に急接近したような気にもなる。


最後に、もう一度、著者のあとがきを振り返ってみると、「  『人間の哲学の再生にむけて』 としたのは、哲学の端緒をソクラテスに置き、自己の生き方を吟味しつつ人間とはなにかを探索し続けたソクラテスの哲学を 『人間の哲学』 と見て、このソクラテスの哲学精神を現代において再生させたいという筆者の願いからである。」 と、書かれている。そのソクラテスは神に対してとても敬虔であったというから、宇都宮氏も晩年は、そういう気持ちになっていたのかもしれない。


そうしたことを踏まえて、宇都宮氏は相互主体の哲学までを語られたようであるが、この相互主体の哲学は、ある意味で、実践哲学として生かされなければ意味がない。先程のように、この哲学を冷やかすように批判をしたが、本当は、現存在における理性の尊厳を考えてみると善人、悪人も含めての難しい実践となるこの哲学を理解するということは、どれだけ他者と自己とを対等な立場で敬愛していくかを行為として示せた時、すなわち知行合一的な状態になったとき、初めて己の理性の具現化が行われるのだろう。


この齢になると、今まで、他者の主体を手段として扱ったこともある己に対して、懺悔の気持ちが湧きはしないわけではないが、生きる為、今まで無知な己のした行為を懺悔するよりも、これからの現在をより善く生きていくことの方に気持ちを切り替えることの方が大切だと思う。今からでは実践が遅いということはない。未だに現在という此岸がここにある。己には、過去という現在はなく、その不確かな追憶のみがある。私の此岸。汝の此岸。他者と共に目的を分かち合うことで今を生きることが相互の幸福となるという行為の実践の信仰。


しかし、喜んで分かち合えるような素敵な他者と出会えることが一番のエポックなのだが・・・現実は虫の好かない他者との我慢の行為。やはり、まずは、身近な悪妻へ 『相互主体の哲学』 の導入ということでしょうか?


by 大藪光政