三つ葉の花


気が付いてみると、書評の中で、池田晶子さんに次いで漱石の書評がダントツに多い。漱石は、好きな作家ではないのに書評を書くのは何故か? 『道を求める者は、食わず嫌いではいけない』 とか、カッコいい事を言うつもりはありませんが、たんなる好き嫌いで読むべき書物を選択してはいけないと自覚している。


漱石が書いた小説を、なんとなく、つまらない小説だとは思いつつも、そのつまらない市井の描写の中に、共感するものを用意している。だから、嫌いだなあと思いつつも漱石の想いが記された小説を気が付いたら手にしている。漱石が書いた小説は、一見難解なもののような作品から万人にわかりやすい作品など許容範囲がある。


この小説 『こころ』 は、読むには読みやすい、そして映画を見るように、吸い込まれていくようなドラマチックな展開がある。この小説は、出版本の装幀(箱、表紙、見返し・・・題字、朱印そして検印まで)を漱石自身がやっている。手にした復刻本を見ると漱石のシックなセンスが伺われるし、こうしたアレンジをするのが好きなようだ。


「校正は岩波茂雄君の手を借りた」と記してあります。しかし、校正としては、何箇所か手抜かりがあります。つまり、「てにをは」である助詞の用い方にミスがあります。復古本は、当時の原文のままですから、今の書物がどう編集されているかはしりませんが・・・これは、何を意味するかというと、漱石は、この作品を書く時、難産ではなく、かなり筆の速度が乗りに乗っていた・・・のではないでしょうか?


文章を書く勢いがあると、そんなのお構い無しに、想いの方が先へと次々と出て仕上がっていきます。だから、意外と細かいところで、ポカがあるのです。しかし、作品の良さを損なうものではありません。どちらかというと、校正者の責任でしょう。 (当方は、文を書くと頻繁に「てにをは」のミスに悩まされます。)


本書は、上 [先生と私]、中 [両親と私]、下 [先生と遺書] の三部作から構成されている。上 [先生と私] では、先生との偶然な出会いから始まる。この [先生と私] を読んでいくと、主人公の私と先生との付き合い方が、一見自然なように書き出しているが、明治時代と現代との人々の生活習慣の相違を考慮しても、不自然な付き合い方だと思う。それは、小説という創作であるところのやむ得ない事情と思えば読んでいても、「まあいいか」と、納得して読める。


漱石の人間不信を描写の中で入れているのは、漱石の不遇な子供の時分による影響だと思われる。そして、先生の夫婦間が冷め切った関係にあるのは、他の小説でも似たようなシーンが出てきますからまたか・・・と思います。親族、夫婦、友人などに対する不信は、己自身に対する不信から来るのかもしれません。


中 [両親と私] では、親という蛹から孵った生き物が持つ晩年の特性を大変うまく描写し切っています。漱石自慢の人間描写でしょう。この [両親と私] でも、話の舞台設定が狭いですが、展開としてはスムーズです。区切りとしては、主人公が危篤の父親を残して、先生の遺書を手にして、停車場へと向かい、三等列車の中で手にした先生の遺書を読み出すところで終わっています。


小説的には意外な展開で興味津々ですが、実生活でそうした父親の危篤状態をほったらかして、先生の死に対して行動を優先させることは、まずありえない話です。しかし、世間一般の常識からかけ離れたことを書くことで、読者をひきつけますから違和感なく次の 下 [先生と遺書] をわくわくしながら読み進みます。


下 [先生と遺書] では、先生と奥さんが結ばれた仕組みをKという友人の登場を交えて、遺書の謎を開いていきます。ここでは、男と女のじれったい関係を軽く構築していきます。


ここで、また不思議に思うのは『遺書』というものが、一般的にかくも長いはずがありません。つまり、これも小説の中での美しいデフォルメだと思います。読んでいて遺書にしては、暗いイメージはなく、またその中に、Kの自殺が演出されていて、その遺書を先生が読むという入れ子のようなストーリーは、まさに、映画の世界のようです。その所為か、Kの遺書を読んでいるのが、先生ではなく、主人公であるような変な錯覚を覚えました。


つまり、映画を見ていると思えば、映画を見ている現実の自分と映画の中にある架空の世界ということで、何の不思議さもありません。ただ、そのストーリーで大切なのが、何故自殺をしなければならなかったのか?が希薄であります。先生の死の前に、Kの死があります。


そのKが死なねば成らなかった要因を、漱石は明確に書いてはいませんが、読者としては先生の欺瞞から発した恋の取り合い・・・ではなく、K自身が発していた『覚悟』に秘められた彼の人生観の行き詰まりと判断した方がまともな気がしますが、先生はKの死によって、自己欺瞞による鬱積から、ついに己の命を絶たねばならない苦しい立場に追い込まれている・・・といった状況で、突然、明治天皇崩御後に起きた乃木大将の殉死事件を引用して、人の死ぬわけを理解出来ないだろうと云いつつ、自分がこうした遺書を書く不毛な理由まで述べて・・・終末を迎えます。


一気に読み終えた私は、先生の遺書で少しがっかりしました。もっと、人間にとって大切な墓標が書き残されていると信じていたからです。読者は、ストーリーの展開に乗って、うまく巻き込まれて行きますと、作者の導く糸を信じ、主人公と共に突き進むものです。


その期待は、漱石の筆によって、うまく逃げられた気がします。漱石自身も、恐らく人の自殺の動機というものをどのように説明していいのかわからなかったのでしょう。だから、わからないことで終わったのです。


作家は、ややもすれば、自身がわからないことをわかろうとして、筆を進めるものだと思います。「書いていくうちに、真理がわかってくるのではないだろうか?」と、つまり、書き付ける行為が自問自答の場として存在する。それが小説となっていく。そんな気がしました。でも、そうしたやり方は、ショーペンハウエルが批判しています。「書く前に考える・・・書きながら考えるのはよろしくない。」と、言っていましたね。


漱石、四十八歳の頃の作品ですから・・・一般人の目からすれば、世間に対する観察力は確かなものだとは思いますが、漱石自身としては、いまだ行き着かない道程の途上といったところですね。この作品がとても読みやすかったのは、漱石に気負ったところが無く肩の力が抜けていたからでしょう。


『こころ』を読むことで、また次回、小説を読む機会があれば、他の漱石の作品を読んでみたいと感じました。

漱石を読み解くことで、人間の不可解さのパターンを学べるような気がしてきました。


by 大藪光政