春の梅

夏目漱石の作品を三十四年ぶりに読みました。


たまたま図書館にあって手にしたのが、『三四郎』です。これは読み直しでは無く、読んでいなかった作品です。

題がその当時、気に食わなくて読まなかったのだと思います。


題が気に食わないものに『坊ちゃん』とかいったものがありましたが、国民文学の代表作みたいでしたから、これは義務教育の一環として?仕方なく読みました。漱石の書物には、私の書庫に色褪せてしまった虞美人草、行人、抗夫、それから、草枕、倫敦塔、我輩は猫である、などがあります。


しかし、不思議とそれらの内容はきれいに忘れてしまっています。何故でしょう?その中には、まあまあ読んで面白かったものもあったと思いますが、どうしても思い出せません。今回の三四郎は、坊ちゃんと同じような読みやすい書き方をしていますが、話の展開はゆるく、今の若者でしたらつまらなく思うでしょう。


一応、恋愛小説なのですが、たいした進展も無く終わっています。これは新聞連載の小説なのですが、当時はこんなストーリーで読者は満足していたのでしょうか?そもそも、文豪と誇称されている夏目漱石がどういう人だったか?過去の人なので私は会ったこともないし、肉声のテープを聴いたこともないし、とんとわかりませんが、人は文学ではすばらしい偉人であると思っているようです。


何故、私が漱石の書物に好意を抱かないのか?その謎解きをするつもりで、あえてこの三四郎を読んだのですが、そこでの発見は、どうも漱石は主人公よりも漱石自身の影があまりに文章にてチラツキすぎるという点があってそれを私が嫌っているということだったようです。


この三四郎の小説は、漱石がちょうど金魚鉢をじっと見ていてその様子を描いている・・・そんな気がするのです。つまり、金魚の泳ぐ退屈な人生の様子をこまごまと描写している漱石の観察の目だけが感じられるのです。

漱石は、西洋の留学で得られた西洋の哲学や知識を駆使してインテリとしての教養を見せ付けています。


当時、こうした時代の知識階級では、西洋の学問に対する欲求は大きなものがあり、その伝道師としての漱石の実力が買われたのでしょう。でも、現代の私たちが書を読むに当たってそうしたことばかりが鼻について、内容は畢竟、どうでも良い結末的な主人公にはなんの想いも抱かれず、そして大したインパクトもなく終わるこの小説に対して、読後感も後味悪く・・・面白くもなんともない小説だと思います。


漱石は、朝日新聞社に社員として入社後、職業作家として執筆活動を行ないましたが、確かに生活は安定しての執筆活動ですが、それが良かったのか悪かったのか・・・そこが問題だったような気がします。江藤淳氏は、漱石の研究で、漱石が社員の時、税金逃れをしょうとして上司からたしなめられて、詫び状が残っていることを上げて、文豪も結構姑息なことをしていた事実を講演で言われていました。


一時が万事と言いますから、漱石の性格は今の人が思うほど聖人ではなく結構、生活欲のある男だったと思います。人は皆、漱石の『則天去私』の言葉から、死んでしまってから妙に神格化してしまうところがあります。だから文豪とか、偉人とかいってもてはやすのでしょう。


しかし、今の小説家と比較した時に作家としての文章力や知識などの文才で漱石に叶う人は、果たしてどのくらいいるのでしょう。おそらく寂しい限りだと思います。小説はストーリー性と文章力が重なって初めて濃厚な文学となるのですが、こうした小説が三島由紀夫以来出てこない!


ところで、三四郎の小説を読んで主人公の三四郎と美禰子との微妙な心の葛藤がわかる若い読者が、果たしてどれくらいいるのか・・・はなはだ疑問ですが、しかしどんな時代もそうした男女間の心持がわかる人は老若男女において少数派でしょう。


漱石がめざした小説は、現実的な市井における生活での人と人との関わりを小説にしたようですが、そうした現実は、つかみ所の無い混沌としたものがあり、リアリティなことに直面した時は、人は冷静さを欠くところです。しかし、混沌とした現実を悟性でもって、ひとつのフォームとして捉えて言葉から文章へと昇華して行ったのですから面白くなくても立派な文学と言えるでしょう。そういう意味では、漱石はインテリとしての本領を発揮していると言えます。


小説を通して、自身の心に再現したイマージュで登場人物のいきいきとした心の葛藤が伝わるのが小説の醍醐味ですが、特に古典は若い年代に読んでも、年老いてから読んでもそれなりに応えてくれますから、歳とともに何度も読み返せば新しい発見があると思います。


福田恆存氏によれば、「シェイクスピアを読むのは若い時か・・・さもなくば、50代を過ぎてからお読みになった方が良くわかる・・・」と講演で言われていました。そうした例外もあるようですが、要は人生経験があった方が良くわかるのは事実のようです。


漱石の小説を金魚鉢の観察小説みたいに貶しましたが、実はそうした金魚鉢の観察を文章化できるのは、ある意味でプロ中のプロでしょう。ストーリーばかりが派手で文章を味わうことが出来ないような小説は恐らく、もののあわれを小説にしても、感動が得られるようなイマージュを心に描くことはできないでしょう。


そういう意味では、下手な最近の小説を読むよりまだ、漱石の書物を読む方がマシな気がします。最後は、漱石を変に讃えて上げてしまいましたが・・・読書の醍醐味はシニアになってからだと思います。これからボチボチ読書を通して老いることの良さを知りたいと願っています。


by 大藪光政