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2013年08月10日(土)

三島由紀夫、「宴のあと」を読んで思うこと。

テーマ:三島由紀夫


書物からの回帰-アルベロベッロ

[ イタリア / 世界遺産 アルベロべッロ にて撮影 ]

しばらく、文学書を読んでいなかったので、図書館に行って借りてきた本がこの本です。この本の存在は、以前から知っていましたがなんとなく読む気にならなくて放置していました。

読者というのは、本のタイトルと本の評判を気にするものですが、僕にもそんなところがそうさせたかもしれません。

この本は、プライバシー裁判であまりにも有名になったということで、当時、かすかに、新聞にも取り上げられていた記憶があります。しかし、その芸術的価値において海外で最初に認められた小説であるというふれこみがいささか気になって、どういった点がそうなのか?知りたくもなりました。

読み始めると、早速、三島らしいというより、日本文学的な情景描写の退屈なシーンを読まされるところからはいります。

恐らく、昨今の若者はこの辺で本を投げ出すかもしれませんね。映画やテレビでは、こうした描写シーンはあっという間に過ぎ去っていきますが、活字だとそうはいきませんからね。文章からそうした情景を今までの経験で仮想的に映像を作り出さねばなりません。

これは、ひとつの脳トレになるかもしれません。そう思って、我慢して読むしかありません。

読み始めると、雪後庵という料理屋の女主人、福沢かづという女性と元大臣の野口との出会いが始まります。

全、第十九章あるうちの第五章で、かづが野口へしたためた恋文が紹介される。これを読むとひとめぼれ的な恋であるのを相手に伝えているみたいで、女性はこうも大胆になれるのだろうか?という疑問も残ります。

しかし、そうでないと小説は始まりませんね。

この小説のあらすじは、東京都知事選に立候補した現存したモデルを題材にした小説ですから、ネットで検索すればその詳細は出てくるでしょう。

しかし、この小説がどこまでその実在の人物を描写しているのか知りません。

作中における意図として三島が描写したかったのは、つまらぬ個人のスキャンダルをあばくというより、当時の政治体質が日本民族によって育まれてきた固有の性質から生まれたものであることをあぶりだしたかったのでしょう。

しかし、三島が他界してから、およそ43年も経っています。今、生きていれば88歳ぐらいですか?日本の政治体質も随分と変わってきました。

三島は、情報化社会が日本の生活を変えていくというのが想像できていなかったかもしれません。

今日の選挙では、国民の意思がどこまで反映されるのかが問われるのですが、ちょうど、先月に参議院選挙がありましたね。

投票率は相変わらずの数字ですが、やはり、政治に関心のある人が投票した反映は、かなり、はっきりとした意思表示だと思えます。

民主党が政権をとったときの国民の意思、再度、自由民主党に政権を任せたときの国民の意思、いずれも手厳しいものだったと認識しています。

つまり、政治家や政党にはまだ問題があっても、徐々にですが国民は敏感に裁定を下していますね。

こんな状況を三島が知ったら、情報化社会がもたらす影響にきっと驚くでしょう。

言い換えると、三島が描いた日本の政治体質がこうも変化してきたということですね。つまり、三島が描いた政治戯画は陳腐化したということです。

三島が描いた日本人固有の性格は徐々にですが変異しています。

それは、プラスでもありますしマイナスでもあるでしょう。

流行を追った作品を書くと陳腐化してしまいますが、それでも、なお時代に濾過されても残ることができれば、それは、きっと普遍的なものを書き記しているからだといえます。

この作品で三島が伝えたかったことのひとつに、理想だけを持った男と、そうでなく、現実に即した臨機応変の対応がとれる女との対比で、政治活動に関して、畢竟、どちらが的を得ているか?という皮肉があります。

こうしたところを扱った背景には、当時の革新政党であった社会党の末路を予言しているみたいですね。

理想だけを謳った政党の"虚"を見破った感がします。

三島は、こうした下絵を使って作品を書くことに長けていますが、その下絵が時代と共に陳腐化していきますから、これから先の読者は歴史をひもといて当時の民意をよほど理解していないとわからなくなるでしょう。

この小説で考えさせられるのは、常にかづが選択する場面だと思います。選択というのは、色々な情報をもとに真偽を確認しながら決断していくものですが、かづには女性特有の直感が選挙活動などで働いています。

そうした感の良い女性が、野口のような堅物に惚れてしまうのもおかしなものですね。まあ、矛盾といえば矛盾ですね。

そして、かづの最大の選択が、野口に離縁されてでも、雪後庵の料理屋を再建させる道を選んだということです。何故選んだのか?

作中に、しばしば、かづが野口家の墓に自分が入れるというあの念願的描写がありましたが、それを最後にはあきらめてでも雪後庵の料理屋の女将で生涯を過ごすこと決断したのは何故か?

それは、生への執着かもしれませんね。

かづにとっては、野口の選挙運動を支えた独自の行動はまさにかづの目覚めた生き甲斐であり、生まれて初めて味わった男気としての自己発露だったのですが、夫の野口が隠居するにあたって一緒に連れ添われるのは、かづにとってそれは去勢された生き方ですから耐えられなかったという風に理解しましたがどうでしょうか?

この小説は、淡々とした受け止めかたで読めたのですが、最後の第十九章で、山崎がかづにあてた手紙には感心しました。

流石、三島はすごいなあ~と思いました。

この本の裏表紙には、「・・・その芸術的価値については海外に最初に認められた小説・・・」と、批評してあったのですが、ちょっと読んでいて「?」と思っていたのですがこの最後の山崎のお手紙で納得しました。

「・・・小生も永いこと政治の泥沼にまみれ、むしろこの泥沼を愛してきましたが、そこでは汚濁が人間を洗い、偽善がなまなかな正直よりも人間性を閉鎖し、悪徳がかえってつかのまでも無力な信頼を回復し、・・・丁度洗い物を遠心分離機の脱水器に投ずると、あまりにも早い回転のさなかに、今投じたシャツも下着も見えなくなってしまうように、われわれが日頃人間性と呼んでいるものがこの渦中で、忽ち見えなくなってしまう、その痛烈な作用を愛します。それは浄化ではありますまいが、忘れてよいものを忘れさせ、見失ってよいものを見失わせる、一種の無機的な陶酔をわれわれに及ぼすのです。・・・」

このお手紙は、もう、山崎がかづにあてた手紙の文章ではなく、読者にあてた手紙ですね。

この手紙がなければ、この小説も生きてこないでしょう。

まさに、よいエピローグですね。

三島は、やはり、名工な作家ですね。

by 大藪光政
  
  
   
   
   
   
   
   
    
 
   
 
   




















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2013年05月09日(木)

「人間にとって科学とは何か」湯川秀樹、梅棹忠夫

テーマ:湯川秀樹

書物からの回帰


          [ イタリア ピサの斜塔 にて撮影 ]

この湯川&梅棹の対談本は、1967年5月に出版されたものです。この文庫本を自宅に何故か二冊持っていました。それぞれ出版日が違いますので、恐らく、実家を離れて独身時代の一人暮らしのときに、また、この本を買い求めたのでしょう。

最近、IPS 細胞の生成に成功した山中教授の快挙が話題になりましたが、その反面、人間が科学の力で神の領域まで立ち入ってきた今日の状況を鑑みて、再度、この本を手にしました。

この対談が行われておよそ半世紀が過ぎようとしています。そのたったの半世紀で、まるで放物線のような加速度(傾き)で人間の歴史からすると人々の生活を一変するように科学は人類の進歩を支えてきました。

そして、生命、すなわち、発生のメカニズムは神の領域だと思われていたのが科学技術の向上によって人間はそこに立ち入り始めたのですね。

この二人の対談は直接的ではありませんが、科学がそうした状況を生み出す可能性を予見しての対談だったような気がします。

対談形式でまとめられた本は、テーマによっては散漫とした内容になることが多いのですが、「人間にとって科学とは何か」のようなテーマも、下手をするとそうなりがちです。それは、答えが出せない、すなわち、結論を導くことの出来ない話です。

しかし、この本を読めば人間にとって非常に避けて通れない大きな課題に対して、状況分析とひとつの整理をつけてくれた気がします。そして、新たな課題を出してくれています。

これが、文学にたずさわる対談者だったらこうも深く切り込めなかったでしょう。このテーマから物の考えを新たに教えてくれる内容もあって時代を経て現在に至っても参考になります。

目次から追っていきますと、「現代科学の性格と状況」という第一章があります。

この中には、三つの見出しがあり、そこで注目するのは、「情報物理学の可能性」というのがあります。

今は、まさに、情報の時代です。恐らく湯川さんや梅棹さんでも、こんな時代が五十年後に実現するなど想像は出来たとしても、具体的なインターネットの世界まで知るすべもなかったでしょう。

ここで、対談を引用してみますと、湯川さんが、「情報といっても、ずいぶん漠然としていますが、一般に情報という言葉で、どういうことが考えられますかね。あなたなんか、どう考えますか。」と、梅棹さんに質問されると、流石、一流の人類学者ですね。少し長い回答の中で、『可能性の選択指定作用のことだというような言いかたも考えてみると・・・』などと、思考を展開して行きます。

つまり、日常使うような情報の意味は、選択肢があって様々な可能性があるときにひとつの答えを選択して与えてくれるもの、それが一般的な性質の情報ではないかと。

そして、情報は秩序と関係があると言っています。つまり、無秩序あるいは混沌の状態にあるあるものに対して、何かの秩序を指定する。それが情報である。と、言い切っています。

これは、やはり、自然界の生物が無機物から有機物の世界に展開していくとき、そうした素材に対して遺伝子という情報でもって生き物の世界の秩序を形成しているという風な考えから言われているのかなあ~と思いました。

この梅棹さんの発言に対して、湯川さんは同感だといいつつも、ここで物理学のエントロピーの用語を用いて、エントロピーが情報の概念と関係があると言われます。すなわち、情報が集積されていく方向というのは、エントロピーが減っていく方向で、ありふれたものがありふれていないものにするということだというのです。

あと、情報については、アプローチの仕方として情報理論が当初、確率や統計という概念、つまり、数学的理論として出発してきているが、そうした理論にはその情報が伝達される手段というか、それを運ぶもののことまで考えていない、しかし、もし、物理学的アプローチとしての情報物理学を打ちたてようとしたら、情報を乗せる乗り物がどう変わるかみたいな側面まで考えることになれば、それは、まさに物理の問題ということになると述べられています。

無論、生物学においても情報伝達としてDNA、RNA、などの扱いとなれば、情報生物学といったことになるでしょうね。

そうして考えると、生物は物と情報の融合体として捉えることができますね。

その際たるものが、人間ですね。

そして、その人間が科学の力でもって、コンピュータなるものを発明し、ストレージに膨大な情報を蓄積し始めたのですが、どうして人間は止まることなくそのような方向に進み始めたのか?真に不思議です。

エントロピー的にいえばエントロピーが減少していっている。つまり、秩序が構築されていっているのですね。でも、自然界は全体としては無秩序になっていっているという考えと相反しています。

どうも、「現代の科学の性格と状況」の章の締めくくりでは、科学が物理における鋳型のような法則の研究から生物の生殖としてのリプロダクションと情報の関係など、静的世界から動的世界を統一するような統一的世界観に向けて自然科学が進み出しているというお二人の認識が読み取れます。

次に、「科学における認識と方法」の章は、非法則的認識、納得の構造、科学の人類学的基礎、イメージによる展開のタイトルで構成されています。

非法則的認識とは、物理学にとって初期の頃は法則と実態を対として確かめながら学問が進んでいったのですが、素粒子の世界、つまり、量子力学になってくると、そうカンタンに認識できるものではなくなり、理論と事実の関係において統計的・確率的な対応をしていると考えないと成り立たなくなってきています。つまり、データが多ければ納得できるが少ないとそうはいえないという関係になっているのですね。

そこで、『法則性とは何か』ということも考えてみる必要があるということですね。中学、高校で習う程度の物理学では、法則とは必ずそうなるという随分はっきりした法則を学ぶわけですが、ここでは、たとえば歴史と言うものに法則的認識を取り入れて考えるという話も出てきます。つまり、トインビーがそれを試みたのですね。トインビーのように歴史的時間性を抜いた手法は確かに面白いですがどうかな?と思います。

歴史と言うのは、個々に当たってみると一回性の出来事ですから科学的手法によるみたいな法則の導きが果たして成り立つのか?と、思いますね。

『納得の構造』の話しが出てきたのはやはり、人間だから法則性においても万人に納得してもらわんといけない。その納得するとはどういうことか?を語り合っています。

物理学は数学的手法を導入して、法則の正しさを納得させてきたのですが、今日ではコンピューターの演算結果、もしくは、演算から言葉の変換による表現、或いは図形的シミュレーションなどで人はなるほどと納得するものです。

でも、そうした数学のツールで説明できないものもあります。よく、数式ではうまく説明できなくても、直感的に法則性を感じ取る場合がありますね。そうしたことを図や言葉だけで人に説明することで人がお互いに納得しあうことは日常では多々ありますから一般的には納得とはそんな曖昧さを抱えての納得なのです。

曖昧であっても、阿吽の呼吸で納得するのがコンピューターを超えた人間の為せる技なのです。

第三章は、「科学と価値体系」です。これは価値の発生、目的論的追及、むだと未完結性のタイトルが掲げられています。

この本の本題は、どうもこの辺から深く入っていっているようです。

「なぜ人間は科学を生み出すのか、生み続けるのか、それを問わねばならない。次から次へと科学的な思考法を積み重ねていく、次から次へと科学をやる人間が出てくる。これはどういうわけか。それこそ宇宙のジェネレーティブ・パワーみたいなものと、どっかつながっているような気がするのです。科学というものは、なにか根元的なところから出てきよる。その根元的な力は、いわゆる価値などというものから離れたものではないか、いわば科学が次々と出てくるのは、人間存在の根本原理としての一種の生殖作用の延長ではないか。」
と、梅棹さんが述べています。

価値と言う言葉を考えた時に、たとえば、価値とはある物体に価値があると思った人と価値がないと思った人がいたとしたら、それは、それを求めているかいないかのレベル差だと思います。

そのレベル差はどうして起きるかと言うと、欲しいから手に入れたいという目的が強ければ強いほど価値が高くなるからでその目的が無ければ、価値もなくなる。

丁度、需要と供給のバランスにおける価値の変動が、すなわち、それが商品だと価格の変動になりますし、必要性が問われるわけです。必要性とは目的がある無しですから、畢竟、価値は目的がある無しを問うのです。

ところが、「科学には目的がない。」と湯川さんが言われるのです。

日本の科学者としての第一人者である湯川さんがそうおっしゃるのですから、驚きですね。

だとしたら、多くの科学者がなぜその目的のない科学に取り組んでいるのでしょうか?

湯川さんの注目すべき発言に、次のようなものがある。

「実は科学は、そういう無目的な生殖作用みたいなものとつながっている。世界を合理的に納得ゆくように把握し、配列し、記述するような力、そういう性質は、生命のかなり深いところに内在しているように思える。子供を生むのと同じように、理性を働かすのは、生命の大変根元的なところからきているという考え方です。つまり、人間には根元的目的性と根元的合理性とが共存しているんです。ここの構造がもう一つわからんけれども・・・」

これは、とても難しい話ですが、科学は今となっては生命と同じで連鎖的存在になっています。ただ、科学は人間という生命存在の延長線上にあるんですね。

だから、今となっては人間が存在する限り科学は果てしなく突き進むのですが、その科学には目的がないというのだから不思議なものです。

むろん、一般的な思考だと、「何を言っているのだ、科学は目的があるではないか、人類を幸せにする!」なんてことになりますが、湯川さんたちが言っていることは、そんなことじゃありませんね。道具としての価値のある科学のことを言っているのではないのです。

科学を道具という事に限定すれば道具には使う目的がありますから、道具は目的のためにこしらえられたことになるし、目的をもっているように思えます。しかし、本当にそうでしょうか?たとえば、日本刀は、武士の時代にはもちろん武器ですが、現在となっては博物館においてあれば、骨董品ですね。しかし、これをヤクザが振り回せば凶器ですね。(笑)

つまり、それそのものには実は目的が無く、その運用の仕方で目的が決まるのです。道具とはそういうものですね。

もうひとつ考えてみると、経営の世界ではストラテジーがとても重要です。つまり、語訳では『戦略』ですね。経営学はアメリカが盛んでしたから、英語で表記されることが多いです。で、人は戦略とは何か?とあらためて問いかけた時、「それは、目的だ!」と、言う人がいます。戦略は目的を達成する為の手法であるのに目的だというのです。少し、おかしい気がしますが、その人は、「目的が達せないようなものは戦略にあらず」と言いたいのでしょう。

戦略は目的と合致していないといけないということですね。

科学に目的がないという意味は、科学そのものには自主性がないということですね。それに対して組織的宗教は自主性があり、人を導き、そして、囲うのです。

しかし、科学はあるがままの存在ですが、ふと気が付いたら人間は自然とその虜になって行っている状況になりつつあります。、それも、人間がこの世界から法則を見出して、それを道具にまで仕立て上げ人類の文化に活用するようになってからは、もう、科学を手放すことは出来ず、それを広げていくばかりです。つまりどんどんエントロピーが減少して行っているのですね。

「むだと未完結性」のところで、科学と宗教の面白い対比があります。

科学は、ものごとを説明できないことが非常に多い。それに対して、宗教は、神の恩寵、仏の慈悲でなんでも全部説明できると、梅棹さんが言うのです。笑ってしまいました。

宗教は、そうだなとは思いますが、科学は説明できないものが多いとは、一般人はそう思わないでしょう。すべて科学の力で説明が付くと思って、科学に取り組んでいますからね。つまり、いつの日か?ですけれど、(笑) 賢人というのはとても謙虚なんですね。

もうひとつは、宗教は完結しているが、科学は完結していないそれは丁度生命の継承連鎖と同じみたいなことを言っていますね。

湯川さんは、そこで孫悟空の話を出してきますが、どんなに頑張ってもお釈迦様の手のひらの中、という話です。科学は常に手の外はどうなっているか?まだなんぞあるのだろうか?そんなことを気にするのが科学者だと言っています。

組織宗教は閉じた世界ですが科学は果てしない広がりをもっていますから科学はエンドレスなのでしょう。組織宗教を固体だと考えると、科学は気体を液化あるいは固体化する作業なのかもしれませんね。

その気体を無限と考えるとそうした作業も無限大となるでしょう。

そして組織宗教としての固体は有限だから、もうあとは液化か気化しかないですね。それは、組織の崩壊によってエントロピーが増大する方向になりますね。

しかし、もともと、宗教も組織として確立するまではやはり、気体から液化、そして固体化の方向でエントロピーが減少して行ったのでしょう。

いよいよ、残り少なし、第四章になりました。

「科学とヒューマニズム」というテーマですね。それは、自己拡散の原理、執念と不安、非科学という事、人間中心主義の根拠という四つの話で構成されています。

『自己拡散の原理』の冒頭は面白いスタートです。

梅棹さんが、湯川さんに「先生は小説をお書きになったことがありますか。」と、問いかけると、湯川さんは、「童話ぐらいやったら書けるかもしれませんけれども、小説までは一度も考えたことはないです。一つは小説を書くというのは、結局九十パーセントまで勇気の問題やね。自分の中の障害を突破して書く。これをしなきゃいかんでしょう。一種の捨て身ですわね。そうしなければ、おもしろいものができない。詩や俳句となると話は違うでしょうが・・・・そういう勇気の問題があります。科学というのはあまり勇気と関係ない。」と話されます。それに梅棹さんは同感するのですが、流石一流の学者は達観していますね。

小説を書くには勇気がいると!

それから梅棹さんは、いきなり、科学とは一種の自己拡散の原理であると言い出します。

つまり、自己を消し去って、自己とは無縁な世界に入っていくのですね。極微の世界、無限の宇宙へと関係を持とうとして行くのだというのです。

学者にとっては、日常のことの方がうまく説明できないと言います。だから、小中学校の先生より大学の先生の方がそうした日常の説明をしなくて済む。もっと大事なことをやっていると称している。(研究でしょうね)だから楽になると言っています。(笑)

梅棹さんの雑談ですが、家で猫を飼っていたら病気して、それで、「どうしょうもないと言ったら、奥さんが「動物学者やないか。猫の病気がわからんはずがない」と怒られたそうです。

まあ、極端な例ですね。(笑)

すると、今度は湯川さんが、負けずに、「私の知っている物理学者で、初め大学で電気工学をやった人がある。一級の電気技師の免状をもらった。その人の家があるとき停電になった。そしたら、その人は「連続方程式がなりたっとらん」と、宣言した。つまり、どこかでつながりが切れたということだ。そういうただけでなにもしない。という笑い話を出しました。

まあ、厳密に言えば確かにどちらも専門家ではあるが、その専門もさらに細分されて行きますから、自分の担当外だと皆目検討が付かないものです。

科学が発達すればするしこ人間の仕事は細分化されていく。それは、職業として専門化していくということです。しかし、そこで大きな落とし穴がある。全体を見渡すことが個々の人間には難しくなってくるということですね。

ところで昨年末から、忙しくてこの記事を書き伸ばして怠けていたのですが、そうしているうちに福島の震災による原発事故のその後の原因究明と今後の対策の現状を特集で放映していましたが、驚くべき事実が明らかになっていることを知らされました。

原子力発電というものに対しての運転に関する制御技術は、完成されていますが、万一の事故対策においては放射能の脅威を取り除くことは、現在の科学力で不可能なのですね。

つまり、事故は起きないという前提での運用には問題ないが、大事故が起きるともうどうしょうもないほどの年月が掛かるようです。今回の事故も修復には四十年間掛かると言われています。

そうした状況を鑑みるとやはり、梅棹さんの発言で、「科学をヒューマニズムで操縦することはできない。ただし科学をヒューマニズムでチェックはできる。そういうことでしょうか。」と、言うと、湯川さんが「しかし、それでは手遅れになる恐れがあるわけですね。そこがきわどい話で、わからんものにはチェックできないでしょう。わかったときにまだ手遅れでないなら、それは大いにコントロールすればいいけれども、しかし、わかったときには手遅れやったという事態にならんとも限らん・・・」と、指摘しています。なんだか、福島事故のことを半世紀前に指摘しているみたいですね。

科学は、日常の身近な生活を便利にはさせてくれますが、それに安住していて気が付いたらヒューマニズムではなんともならない状況に人間を追い込む可能性があるということですね。

湯川さんも梅棹さんも、科学は人間主義を裏切っているとずばり言っています。それは、科学技術の発展が実は人間にとって不幸な事態になることを意味するのだろうか?と考えてしまいます。

福島の事故はそれを物語っているのかもしれません。

この間、テレビで鶏の解体を全自動でやってのける食品加工機械による生産過程を見ました。首のないそして羽毛も毟られた鶏がオートメーションで次々と加工機の中に入っていく。。。そして、出てきた時には、見事、色々な部位に分かれて人間の手で切り分けしたみたいに高速でパック詰めされて出てくるのです。それは、私たちがスーパーの陳列棚に並んだ鶏肉のパック商品そのものなのです。

これを見て、リポータも番組の司会者も一緒に笑って見ていましたね。そうです、そうした多量の生き物が次々とマシンに送り込まれて人間の食料として加工されて行くその情景をなんとも思わず楽しそうにリポートしているのです。

深く考えるとある意味でおぞましいことですね。

恐らく、こうした番組の出演者でも、あるときはテレビのドラマやあるいは映画で動物の悲しい物語に涙することもあるでしょう。

つまり、人間の心は科学を手にしたことで二面性をもつようになってしまったのですね。

科学技術とヒューマニズムの融合というのはこういうものを指すのかと思いました。

もう、鶏は人間にとっては生命をもった生物という感覚はなく食品なのです。しかし、それを日々食べている自分という存在を考えると変な立場にあると言えます。

最後の第五章、「科学の未来」は、当為と認識、科学の社会化、究極にあるもの、永夜宵何所為のタイトルで話が進められています。

当為と認識では、冒頭から宗教と科学の大きな違いをお二人は述べられています。

それは、前にも述べられていたように、「・・・宗教は、何でも説明する。一方、科学は何か確信的でない・・・つねに疑惑に満ちた思想の体系なんですね。」と、梅棹さんが言い切り、それに判子を押すように「それが本質だね」と湯川さんが同感される。

それでいくと、未来というものに対する扱いが随分と違っていると言い切ります。宗教においては、未来というものは、だいたいこういうものと断定している。つまり、未来になってみないとわからないという説明はない。たとえば宗教家には、終末観、末世観、あるいはまったく逆の観という色彩が強く、いずれにしてもこうなると言い切るところがあるというのでしょう。

そうでないと宗教としての権威が保たれないと言っていますから、笑ってしまいます。そうでしょうね。先のことはわからない・・・と言えば、歌の文句じゃないけど、「ケ・セラ・セラ」になってしまいますね。

そうした「権威が保たれない」というところはとても、ヒューマン的ですね。その点、科学は未来についてはわかりそうなことも、なってみないとわからないという不確定的な推論しかできないことを認めているわけです。

ここで、もともと人間には『現在』という意味には過去も未来も入っていたものが、科学によって過去、現在、未来というあらたな意味を持つようになったと言われます。これは、なかなか、考えさせられることですね。

さて、ここで梅棹さんは、当為と認識についてかなりの持論を展開されます。特に、『当為』という言葉は日常では使いませんから、少し考えさせられるところです。ここでは、どうも私たちが生きている現在においての『奮起』の方向ということになります。

梅棹さんは、こう言われています。「・・・生命の流れがあるでしょう。現在はこの時点です。 (図には、正規分布図のような作図があって、中央の現在点のピークが当為の方向になっていて、左側が過去に対する認識、そして、右側が未来に対する認識になっています。) そうすると、生命の長い歴史がもっているエネルギーのすべてを、おのれの存在するこの一点において集積し、放出しょうということです。客観的にいえば、ほんとうのところは、どこがどうなっているのかさえもわからない。にもかかわらず、現在の時点でエネルギーのピークをつくろう。それによって、おのれの命は、永劫の未来まで充実し、波及してゆくであろう。実際に波及してゆくかゆかないか知らないけれども、ゆくものとして、自分のところでとにかく全部使ってしまおうという原理なんですこれが『当為』の原理だと思います。・・・・」と、とても重要な発言をされていますね。

そして、『当為』は、生命が根元的に身に備えた性質の一つで、奮起というのはその中でも一番きつい場合だと付け足しています。

そこで、科学と宗教の違いを結論付けています。

宗教は、まさに、その当為を自己凝縮の原理で、科学は自己拡散の原理だと結論付けていますね。

しかし、『科学の社会化』のところでは、科学も宗教と似てきているのかもしれないと、問題を提議していますね。つまり、ひと昔と違って現代には多くの科学者がいて、個人でひっそりとやるような時代から、大勢で取り組む状況になってきていること、それがすなわち、社会的にも組織化となり、当為としてのエネルギーの励起を促している。それは、宗教がたどった道と同じみたいだというのです。

そして、科学の社会化とは、科学がルーティン化しつつある傾向を指しています。二つの言葉で言えば、仕事と作業は違うと言っていますね。

この視点も面白いですね。ルーティン化 = 『作業』 = サラリーマン化という見方です。学者と言うのは、本当によく見抜いていますね。

僕は、気が付いたら教育に深く関わってきたのですけれども、今の子供たちが受験勉強で学習塾なるものに通っているのは、受験に合格する為の教育、その効率化、それはまさにルーティン化 = 『作業』 = サラリーマン化への道にまっしぐらなのです。日本の教育が駄目なところは、ここですね。受験中心教育は、創造的人間喪失の方向に向かっています。

僕が、このことを感じたのは、今から約五十年近い前ですが今は益々そうした教育産業に拍車が掛かって、創造性に富んだ子が少なくなっている気がします。教育産業は、儲かる産業のひとつですからね。それは、子供を担保して親から限りないお金を絞りとれますから。

でも、そんなことで騙されるのはやはり、親が莫迦だからでしょう。本当に賢明な親はそうした教育に惑わされずに真の教育を子供に与えているはずです。

読書をしっかりしておけば、受験の為の塾なんて行かなくてもいいのに。。。(笑)

さて、脱線したので話を元に戻しますと、宗教が社会事業化しているのと同じで、科学も社会事業化していっていると位置づけています。ただ、そうした中で、宗教とは違うものがあると言っている。

それは、科学は常にわからないことをいつでも持っている、すなわち、開かれた体系だということです。

それは、ある意味で完結していなくて不安に駆られるというのです。これは、科学が常に、「何故?」を繰り返すことが科学であるからでしょう。これをやらないところが宗教と大きな違いでしょう。

宗教と科学との類似性においての指摘で、「宗教がある時代には大変野生的で、人間の未来を開くかと思えた。それが社会化してしまった。」と、あります。つまり、それが宗教の文明化であるわけですが、科学も同じ道をたどり始めているのは、二人の指摘通りですね。

薬の話!

対談の終わりごろになって、ふたりは"くすり"の話をし出します。どんな話かと言うと、科学の万能性をはっきりさせる決定的なもの。。。それが、くすりだと言うのです。

つまり、人の心をコントロールできる薬!最近は、精神障害者に対しても薬を処方しますね。しかし、ここでは、それとは別に人の心をハッピーにさせるくすりを取り上げていますね。

つまり、安心立命の究極の処方としてくすりがもっとも手っ取り早いというのです。LSDやアヘンは副作用があって身体を壊しますが、もし、科学の力でまったく身体に無害で心に作用できるくすりを人類が手にしたら、もう、宗教も要らなくなりますね。

苦しい修行をしなくても涅槃に入れる。。。涅槃の薬!そんな笑える話が出てきました。これだと、貧富の差があっても、くすりを飲めばみんなハッピーになって、おれますから、そうした社会問題も解決ですね。犯罪も起きませんね。

身体に無害であれば誰だって飲用したくなるでしょう。ストレスがたまったら、はい、一錠!ということで、解決です。

科学技術がそこまで到達したら、人間の生き方はがらりと変わるかもしれません。それは何を意味するのか?ということになります。もし、科学の成果がそうであれば、人間の死に対しても気持ちよく死ねる薬を当然用意するでしょう。

それが、善なのか悪なのか?

ということをつい考えてしまいますが、人間の究極の悩みを科学の力で、くすりという処方で解決できることがどうして悪いといえるのか?と、思ってしまいます。

科学は目的があってはじまったものではなく、できてしもうたもので、そういう意味では、非常に根元的、生命的なものだと梅棹氏は言っています。

それは、人の誕生と同じですね。

そして、生まれてしもうた以上は幸せになりたい、そして結末は、やすらかな死を望むというのはみな同じ願いだから面白い。

最後のところで、梅棹さんがこう言い放ちます。

「私は、神というものの存在が科学によって初めて実体的なものとして考えられるようになったと思う。そういういい方をしてもいいように思います。科学によって初めて、神の実在の可能性を考えることができるようになった。人間自身を相対化し、地球を相対化し、太陽系を相対化する。そういう徹底的な相対化による人間自身の客観化、そしてその結果、なにか人間を超える生物のようなものだって、宇宙のどこかには当然あり得るのではないかという認識が生まれてくる。もしそういう超人間的生物が存在するとすれば、それはまさに「神」ではないか。宗教の場合は、神を『考える』ということとは違うでしょう。宗教では、神というのは、すでに在るんです。神の存在は既定のことです。ところが、科学の場合は、神は考えられるものです。科学によって初めて超人間的存在の可能性が考えられるようになった。まえに出た話でいえば、人間は神と関係を結ぶべからざる存在です。たてまえとしてはそうです。そのはずですけれども、人間は科学によって理性の段階で関係を持つことが可能になってきた。神は、どこかにいるかもしれない。先生はどうお考えですか。」と、言って湯川さんに問われます。

「人間にとって科学とは何か」というこの書物は、人間は究極、何を見出して、そして、何処に行くのだろうという気持ちを引き起こさせます。

それは、人類としての未来を想像するのですが、自分という存在からしてみれば、人類の寿命よりはるかに短い命ですから、もう、あと何年もしくは、あと数十年の残された人生だから、まだまだ科学は発展し、かつ、多くの謎解きに躍進するだろうという気持ちだけですね。

でも、自分の死後というものを考えたとき、神という存在が己を単に有機物としての存在だけで終わらせるということ。。。ただ、それだけなのか?という疑念があります。僕の魂はどうなるのだろう?みたいなことも考えますね。

しかし、大切なことは自分における当為という言葉と奮起について、今やっていることが(教育)まさに、その部分に来ていると実感しつつ、それを成し遂げることだと思っています。

<エピローグ>

この本は、昨年12月に読んだのですが、年を越して五ヶ月後にこの感想を書き終えました。たんなる感想文ですから別に難航したわけでもなく、理由は僕の行動が一変したからです。読書やこうした文章を作ることから、少し遠ざかって行動による経験そのものを大切にするために時間配分が変わったからです。

四月にイタリアに行って来ましたが、やはり、ヨーロッパは何度行っても歴史の古さに圧倒されますね。そして、しっこいくらいの教会の数と荘厳な装飾!まさに、宗教あっての文化です。

ヨーロッパの石畳とレンガの建造物がある中での生活と比べると日本は草むらのまさにうさぎ小屋の生活みたいです。

でも、帰って来るとなんとなくホッとしますね。

そのウサギ小屋的生活人が、科学立国の国民なのですから面白いものです。日本人は、なんといっても平和が好きですね。とても、すぐれたうさぎです。ヨーロッパの文化遺産を見ると、古代日本は千年の遅れを感じさせますが、今は国際的に、立派にすぐれた生活を営んでいます。

日本は治安がいいし、料理も美味しいし、宿泊のおもてなしはよいですね。何が足りないかといえば、あまりに謙虚なので自己主張がないてところでしょうか?平和主義は、思いやりや、譲り合いといった遠慮から来ているのでしょう。

日本人の長所を失うことなく、国際社会にアピールするには、やはり、まだまだ、科学立国としての地位がいりますね。

実直な国民性が科学に対する取り組みにはうってつけですから、若い人の科学に対する取り組みが楽しみです。

そして、ただ科学ばかりに取り組むのでなく、芸術を身近な生活とした環境の中でやることが大切な気がします。科学は芸術と共に育まれる人によって、きっと、変な方向に行かない気がします。

by 大藪光政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    


































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2012年11月07日(水)

「濁世の仏教」-中村 元+水上勉 仏教史講義を読んで 

テーマ:中村 元

書物からの回帰

[スペイン / サン・アントニオ・デラ・フロリダ聖堂の近隣にてゴヤの銅像]

この本を最初に読んだのが、1980年頃です。
今から、32年前ですね。

だけど初めてな気分で読みました。

宗教と言うのは、非科学的な存在ですが、まだまだ人類にとっては大切な存在のようです。その証拠に星の数まではいかないにしても多くの教団が存在しています。

その中でも、東洋でひと際大きい存在が仏教でしょう。

日本ではすでに仏教はセレモニーとしての存在で庶民に定着しているだけですね。用があるのは葬儀と法要のときだけのようです。

母を亡くしたとき、葬儀が済み続いて初七日を執り行なおうとしたのですが、お寺の若いお坊さんが、自分の友人の結婚式に出なきゃならないから、後にして欲しいなどと、言われた時、その発言が公私混同になっていてみんな唖然としましたね。

兄弟で相談して、結局、僕がその坊さんを説き伏せ、しぶしぶ、初七日をしてもらいましたが、お経を唱えている間、みなさんが焼香している最中、時々後ろを振り返って、あとどれくらいで終るのか推し量っていました。つまり、これが終ると結婚披露宴に駆けつけたいからです。

わからないではありませんが、宗教人として、まあ、なんと世知辛いお坊さんなのだろうと思いました。

スポーツカーなど車好きな若いお坊さんと亡くなった前の和尚さんとはまったく違った性根ですね。

お寺における世襲制がそうさせてしまったのでしょう。

さて、仏教はインドから中国を経て日本にやってきたのですが、今でも思い出すのが、中国共産党が始めて使節団を日本に送り出したとき、僕は石橋美術館で人民服を着た中国の人たちと漢字で筆談をしたことがあります。

そのとき、とても友好的に筆談が進んで中国製の煙草まで勧められましたが、僕が、「佛教」の文字を書いて問うた時、急に態度が変わってわざとわからない振りをしたのを覚えています。

中国共産党の国では、宗教はご法度だったのですね。共産主義にとって宗教は麻薬とまで言っているくらいですからそうなのでしょう。

宗教とは無関係の孔子の論語さえ当時は禁止されていたようです。

そうしてみると、宗教と権力とが無関係でないこともよくわかります。そうした事柄にもこの本は触れてあります。

さて、僕は、もともと宗教とは距離をおいています。しかし、日本人としての生活の習慣の中に溶け込んでいる神仏への従順はみなさんと同じでしょう。

先程、申しあげたように宗教と権力がもつれ合っているのは、宗教が組織として活動することから必然的にそうなるのでしょう。

そうした意味で僕にとっては組織的な宗教というものが信じられないのです。

個人のみに帰依する宗教であればそれはそれでその人の姿勢だと感服しますが、組織の為の宗教になってしまうとなんだかおかしいと思うのです。

宗教というのはつまるところ心の問題を扱うものだと思っていますが、今、僕が取り組んでいる教育もつまるところ心の問題のようです。

能動的に心に働きかけるのが宗教で、他動的に働きかけるのが教育だなとも思いますね。

この本の対談者である中村 元という方は、約十年前にお亡くなりになられた哲学・仏教学界の重鎮だったようです。

そして、相手方の小説家である水上 勉は、ちょうど二十年前に亡くなられていますね。 時の経つのは早いものです。

この本の構成は、「愚者のごとく」から始まり、「人間道元」そして、最後の「わが寝台となせ」で締め括られています。

道元については有名であり名は存じていますが、道元の書かれた名著にはまだ目を通していません。

しかし、対談の中で道元が只管打座をひたすら通されていたというのを知ると、そのようなことだけであのような難解な本が書けるのだろうか?まさか、一日中、只管打座の生活ではあるまいと、思ったりします。

道元がかなり粗末な衣を着ていたという話を信じれば、道元という人はかなり、己に厳しい人だというのがわかりますね。

そういう人は、権力に擦り寄らないし、依存もしないでしょう。

『お釈迦様』という言葉は、誰しも知っていますが、別名、『仏陀』と言いいますね。これも殆どの日本人は周知されていることです。

しかし、中村 元によると真理を悟った人という意味で、仏教だけに限らず、ほかの宗教でもその言葉を使っていたと言うのです。そして、ジャイナの書物にも当時の偉い仙人みたいな修行者のことをみんな『仏陀』と呼んでいるそうです。なんだか、インドのそうした宗教の坩堝は深いですね。

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ジャイナ教 (注釈) {仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保って いる。}
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そのお釈迦さん自身は、どうも、教団をつくる意識がなかったそうですが、そのことについては、釈迦に臨終が迫ってきたとき、弟子のアーナンダが最後の説法を願うのに対して、「泣くな、悲しむな、もしもみなが私を頼っていたのであるならば、嘆き悲しむのは当然であろう。けれども、自分は教団を指導してきたという意識は全然ない」と、釈迦が本当にそう言ったか言わなかったかの真実はともかくとして、そうした伝えがあるということです。

そうしてみると、親鸞の「弟子一人持たず候」と、同じ考えだと中村 元は言っています。

付け加えますと釈迦は、「自分はただ、人が如何に生きるべきかという正しい道を説いただけなんだ。ただ、自分の残した法というものがある。嘆き悲しまず、『ダルマ(生きた真理)』に頼れ。」という話があり、その言葉を道元がはたして読んだかどうかは定かではないが、精神においては通じるものがあると、独断だがそう感じていると述べられています。

どうも、そうしたことを知ると現在の仏教界というのがだんだん怪しくなってきますね。

また思うに、意外と釈迦が現代に存在している仏典を読むとびっくり仰天するかもしれませんね。

「俺は、こんなに難しいことを説いていないよ。一体誰がこんな立派な法を書いたのだ?」とね。

どうも僕は、疑い深い性質なので2500年前の釈迦だとか、キリストだとかの言ったことがそのままそっくり伝えられているとは信じません。大きく間違ってはいないにしても、表現や内容が変わっていると思います。

長い歴史の中で無名の支持者によって誇張されたり、削られたり、そして、付け加えられたりして現代に至っているのではと思っています。

それが証拠に、いつの間にか、釈迦が思うところの教えが、組織としての仏教団体化してしまっているからです。つまり、宗教人の職業化ですね。

職業となれば、しっかり働いてしっかり稼いで出世して良い生活をしたいのは世の常ですね。これには、釈迦も想定外だったことでしょう。

現在のお寺の役割と云えば、葬儀と法要と最初に言いましたが、お寺によっては悩み事相談をされているところもあるでしょう。しかし、科学が発達するにしたがって悩みも複雑になり、そうしたことに対処できる和尚さんがだんだん少なくなってきているのも事実ですね。医療としての『心療内科』で受診した方が適切だと思われる方が多いでしょう。

純粋な心の悩みでなければ、たとえば経済的なことや諸々なトラブルだとそれなりのアドバイザーとして、弁護士、税理士、司法書士、行政書士、果ては消費者相談まで、多くのサポートビジネスが現在では構築されており、和尚さんの出る幕ではなくなっているのが今日ですね。

書の最後のところで、面白い書き出しがあります。

「すなわち慈悲の気持ちを持って人々を助けるということ、これが必要だと思います。この点では、仏教者よりも、インドのラーマクリシュナ・ミッションのほうが進んでいると思います。ヴィヴェーカーナンダは、『宗教の本質はどこにあるのか、教義の中にはない。それは人々に対する奉仕の中にある、教義なんていうものはどうでもいい』と、言う。それは、非常に禅的な言葉でもありますね。万巻の書も何もいらない、釈迦もいらないという禅の言葉がありますね。悩んでいる人に向かって教義を説くのは、『飢えている人に向かってパンを与えないで石を与えているようなものだ』その気持ちでヴィヴェーカーナンダは実行したわけです。だから、インドで社会救済事業を一番やっているのは、ラーマクリシュナ・ミッションですね。」

つまり、「宗教の本質は奉仕にある」ということですね。

それが真実なら、僕も少しは宗教人になりつつあるということですか?
だって、『教育』を奉仕としてやっていますからね。(笑)

「宗教の本質は奉仕にある」は、見返りを要求しない無償かつ無私の奉仕精神ということのようです。

それは、ある意味で神に近い行為ですね。

まったくの無私というのはとても難しいものです。

『塩鉄論・利議』に「言う者は必ずしも徳有らず。何となれば、これを言うは易くして、これを行うは難ければなり」から来ているという、「言うは易く行うは難し」ですね。

どんなに素晴らしい哲学や宗教を、勉強、研究、思索などしていても、そこでとどまって終わるのではなく、それに基づいて行動の中で具現化していく、この本にもある『身現者』というのがそれに当たるのではなかろうかと思います。

「無私での奉仕」もそうなのでしょう。

宗教人もそうでなくてはお話になりませんね。

石原慎太郎は、東京都知事を辞めてあの歳で国政に復帰するという決断を見ていると、過去のライバル三島由紀夫に対する・・・『あの行動』・・・良きライバル意識なのか?それとも、お国の為に最後の「無私での奉仕」なのかしらんと、思ったりします。

みなさんも各自、大小に拘わらず、『身現者』になって「無私での奉仕」を行うことで、神に近づいてください。

ひょっとしたら神様になれるかもしれませんよ。

by 大藪光政













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2012年08月31日(金)

西垣 通 「秘術としてのAI思考」を再読して。

テーマ:西垣 通


書物からの回帰


[ スペイン / アルハンブラ宮殿からの展望]

はじめに・・・先日、こんなメールが届きました。

「森鴎外の短編小説「普請中」のあなたの解説を読みました。
なにしろ大昔の話ですから、何処まで本当か嘘か、出鱈目か
分かりません。私もふとしたことで鴎外の『舞姫』と『普請中』
をみました。 私も感想を書いていますので、お暇があれば見てください。」
と言った内容です。

私のブログはすべて、コメントなどコミュニケーションに関することは出来ないように設定してあります。理由は、ブログを沢山持っていますので、コメントに対するお返事が遅滞すると失礼と思っているからです。

しかし、このアメーバはメール形式でも私とコンタクトが取れるようになっています。

そうしたメールが送られると、私のWebメール宛にアメーバから「届いていますよ」という案内が届きます。これだとすぐに読まれた方からのメールが来たとわかりますから、それはそれでよいことだと思います。

ただ、メールにつきましては、実名のみ直接にご返事させて頂きます。

さて、そうは言っても頂いたメールを読んで、内容が真摯であれば匿名でも、ご返事しないわけには行きません。

それで、メールされた方の森鴎外とエリスに関する来日事件についての調査記事を読みました。すると、こうした意外な事実というのがあるのか?と感心しました。

ただ、出典が明記されていませんでしたので気になるところでした。

しかし、お調べになっていた事柄が事実だとすると森鴎外のエリスに対する日本での応対に関して冷淡なものだと決め付けられない・・・確かに、何かほっとする一面を感じさせられます。

歴史における真偽というものはとても難しいものであることは、この方も述べられています。

例えば、歴史上の事件において、場所とか物についてはのちにそうした証拠が出てくれば真偽ははっきりしますが、人の心の表裏は摑みがたいものがあります。

仮に、手紙や何かでその人の想いが綴られていたとしても、それはつくろいの詭弁かもしれません。それに騙されてはかないません。

従って、何を信じるか?は、人によって様々でしょう。ただ、前向きな明るい受け止め方をする方が健康的でよい気分になると思います。

そういう意味では、鴎外という人物を良い方向に見直せたと思います。

ありがとうございました。

紙面にてお礼申しあげます。

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さて、西垣 通 氏の 「秘術としてのAI思考」を22年ぶりに再読しました。

それというのも、昨今、やれ、スーパーコンピューターだの人工知能型のコンピューターだのとNHKが特番で取り上げていて、それでこの本のことを思い出して、書棚から探して読み返すことにしました。

この本を書かれた時、西垣氏は明治大学の助教授でした。当時、42歳でしたので、とても驚きでした。あとでわかったのですが今は東大の教授をされていますね。

これを最初に読んだ当時、自分より二つ年上なのにこんなに勉強されているのか?と感嘆しました。

何せ、理工系なのに文系の豊富な叡智と思索を持ち合わせておられるのですから、世の中にはすごい方がおられるものだというのが当時の感想です。

人工知能を研究するに当っては、人間の歴史、文化、芸術といったさまざまな視野から光を当てていかねばならないというのをこの本から学ばせられるところですが、当時、なんとなく知りたいことが知りえない物足りなさを感じたのもです。

それは、人工知能そのものの具体的なこと、すなわち、技術的な解説とか、それに付随した用途などについての詳しい展開を殆んどされていません。

だから、この本は人工知能という科学分野系なのにあれから22年経っても、少しも陳腐化していません。

もし、仮に、大胆なこれから人工知能が発展していく仮説などを掲げていたら、科学技術の進歩の具合によって今読めば陳腐化した内容が混じっていたかもしれません。

西垣氏は、そうした科学的な書物の欠点も想定されて、数十年後の読書に耐えられる構成で望まれたのかもしれません。

まず、一般の人とこれらを仕事として取り組まれている方とは、人工知能が意味するところの解釈が大きく違います。

NHKにて紹介されたものは、エキスパートシステム系のものですね。クイズ番組で人間と競って人間を負かせてしまったAIはクイズのエキスパートシステムの勝利だったようです。

だから、例えば、クイズの課題が何でも良いということになれば、人間の方が勝つに決まっています。

限定された範疇の出題に関して答えられるのがエキスパートシステムの限界範疇なのですね。

遊び以外に医学において、医者の代わりに患者の病名を当てるとか、治療方法や投薬の最適なお勧めを示すことができる仕事にもAIは適しています。

それは、膨大な医療データを瞬時に検索して、簡単に言えばIF構文などで解析していけば、下手な不勉強の医者より精度ある医療が行えるからです。

現在、医療現場においてはこうした医療エキスパートシステムが、患者の検査内容や病状データをパソコンで入力すれば、Web経由で大型のAI搭載コンピュータで、瞬時に想定される病名の絞込みと、それを最終的に選択し、決定した医師の診断をさらに入力すると今度は、その患者に合った最適な治療法や投薬の薬の種類とか量まで教えてもらえるでしょう。

しかし、最終的にはたとえ藪医者であっても医師の判断によって治療がなされるのです。(笑)

このシステムは名医でも、セカンドオピニオンとしてに活用できるシステムだと思います。だからすばらしい技術には違いありません。

ただ、患者に関するデータや検査結果のデータの入力が間違っていると、このエキスパートシステムのAIといえども誤診をしてしまうのは当たり前のことですね。

でも、高度なAIであれば、「患者のデータや検査の結果に疑問があります。再度、調査願います。」といった答えが返ってくるかもしれません。

そして、それがまさにそうだったとすれば、それはかなり完成度の高いエキスパートシステムでしょう。

チェスや将棋や囲碁もエキスパートシステムの動作と似ていますが、相手の打つ手を読み込んで膨大な指し手のパターンデータを検索してもっとも有利な指し手を選択して対戦するシステムなので形態は違うようです。

この世界は、閉回路のような世界ですからかなり行き着いていて、プロも負けてしまいます。それは、医療に比べて論理回路が構築しやすく、データもシンプルだからでしょう。

しかし、株価予測というのは、そう簡単にはいきませんね。シンプルなものであれば過去のデータで精度を上げて確率的に判断することになります。

これも、IF構文と条件式で構築することが可能です。高値、安値といった日々のデータに基づいての予測システムを簡単に作ることができますが、しかし、株価の場合は過去のデータを使ってのシミュレーションというのには問題があります。

それは、過去のデータが古ければ古いほど現在の予測を占うことにおいて意味がなくなるからです。

つまり、10年前と現在とではその企業自体が変貌しているし、社会も当然変わっています。だから、同条件が成り立たないのです。

逆に、直近のデータであっても役に立たなくなることもありえます。それは、突発的な事件が起きて、株価が暴落したときのデータは一週間後にそのデータが入っているとまずい場合があります。

それは、事件後、すぐに市場が回復した場合株価が元に回復するからです。

つまり、突発的な予測できない出来事に対して、まったく、システムは無能なのです。それは、人間の判断すらそうでしょう。天災は誰にも予測できないものです。

つまり、混沌としたものに対してのエキスパートシステムは構築できないのです。

ただ、そうしたことを承知で電卓を使うような軽い運用で精度をあげるとか、判断材料のひとつとして見るというのにはよいかもしれません。

さて、こうしたシステムを一般の方はAIだと思われているでしょうか?AIと言えば、そうです鉄腕アトムには人工頭脳が入っていましたね。

それに対抗するかのように、鉄人28号の後半には、ロビーという名のロボットに人工知能?人工頭脳?横山光輝氏はどちらの言葉を用いられたか?記憶にありませんが、そうした知能が暴走したロボットを描いていました。

一般人の描くSF的なAIは、学習能力があるということと合わせて意志があるということですね。アトムの場合は感情すらあります。

これらを読んだ多くの読者は、そうしたことが未来に実現できるのでは?と夢を膨らませたことでしょう。

実際、産業用ロボットに至っては、ティーチング機能でもって容易に作業を覚えてくれる狭義の学習機能があり、大いに役立つシステムです。

しかし、産業用ロボットのティーチング機能は、基本的に動作のコピー&ペーストと同じで本当の学習機能とは言えませんね。

本当の学習機能が人工知能に備わっていれば、データを入力するだけで、あとは、どんどん勝手に学習してくれて手が掛からず、自ら能力を高めてくれると思われるのが一般人の思いでしょう。

でも、そう簡単には行かないようです。広義の意味での学習能力というものには、どうしても意志というものが潜在していなければなりません。

さて、もうひとつ、身近なことは、SF映画にあった「2011年宇宙の旅」に出てくる、人工知能が人間に立ち向かう話ですが、なんだかぞっとしますね。

でも、今は2012年なのに、とてもとても、人工知能との会話どころか翻訳すら満足にできません。(笑)

だから、科学技術においては未来という設定も慎重にやらないと進捗の前後が大きく狂ってしまいます。

会話だけでなく、翻訳することにおいては日英翻訳やその他の国の言葉においてもそうですね。ネット上の無料翻訳に至っては、大変お粗末なものです。和英で訳したものをコピーして、それをペーストして英和で翻訳させるととんでもないことになります。

ほんの短い文章でもそうですね。これは、日本語の言語の繊細さによるボキャブラリーの多さに対して英語にはそれに対応した言葉が用意されていないというのもあります。

つまり、言語の世界も表現力の差が各国で違います。日本語は高水準、ハイレベルの言語ですね。

ワードを使うときも、そうですね。文章を入力するととんでもない文字変換になりますね。マイクロソフトは頻繁なOSのつまらぬ作り代えで商売しないで、もっとちゃんとした文章変換機能を開発しろと言いたくなります。

翻訳には、もうひとつ、生活形態の違いから来る解釈もありますし、国民感情も大きく違うので、潜在的な意味を知りえた上での翻訳が必要になります。

この間、ケセラセラの歌を合唱でやろうという話になった時、歌詞を見ていたら、笑ってしまいました。自分が描く曲のイメージと歌詞が合わなくてがっかりでした。やはり、原語で歌った方がかえっていいなあ~と思いました。

翻訳の難しさは、英詩や多国語で書かれた詩を翻訳させるのが一番ですね。
きっと、とんでもない翻訳が出てきます。

そうそう、カーペンターズのSingを翻訳機で翻訳させたら、なかなか、困難を要しました。あんな簡単な歌詞すら難しいようです。

つまり、感情、即ち感性まで理解できないとムリなのです。

人工知能が意志をもっこと事態がムリなはなしですね。それは、機械と人間とはハード的にボディーが違いますから、意志や感情が宿るはずがありません。

そして、人工知能というものが受動的なプログラミングで構成されている以上、狭義の運用しか能力を持つことは出来ないでしょう。

しかも、論理的に構築できる世界だけ有効でしょう。不確かな世界においては、やはり、優秀な人間の方がまだましというものですね。

高度な意識や高度な感情というものがいつの時代から、そしてどのようにして、人間が勝ち得たのかは謎ですが、心と肉体、そして、人間社会によって形成されたのには間違いないですね。

そして、それらを辿るように研究して新しい高度な人工知能が生まれたとしても、果たして、どこまで行き着くのかわかりませんね。

まあ、恐らく幅広い能力としては、決して人間を超えることはできないですね。

それを超えようとしたら、やはり、ハード的にも人間のような人造生物に近い造りになっていくに違いありません。

人工知能が、高度な意志を持つということになると、究極的には「自分が何者なのか?」と自問することになります。

一般の人でもそこまで深く思索することはありませんね。自己の存在の摩訶不思議さというものを考えている人は地球上の人口比率ではわずかでしょう。

でも、人間の構築元のDNAのセッティングにおいて人間にそこまで強い意識を持たせる可能性まで備えていたのか?それとも、勝手に自走しながら勝ち得たものなのか?わかりません。

どうも、考えるに人間は自然物ですから単体で考えるよりこうした地球や宇宙全体の一体とした生成物と考えるべきなのでしょう。

つまり、つながっているということですね。

でも、不思議なことに人間自身が自然物を模倣してどんどんコピーを作っていきます。「一体人類とは何者なのか?」と、思わずにはいられません。

しかし、限りなく自然の創造物に挑み、かつ自然そのものすら操ろうとするとき、果たして科学がそこまでに辿り着くだけの時間を人類が持ちえるか?疑問です。

人類全体の寿命というものがありそうですからね・・・いやありますから。

ましてや、今生きてこれを読まれている皆さんは、少なくとも、二十歳以上でしたら、たったの100年後にはすでに誰も生きていませんからね。(笑)

そう思うと、人工知能といった研究もむなしい気がしてきますね。

でも、意欲ある若い方にとっては楽しみな研究の一つだと思います。

若い皆さん頑張ってください。



by 大藪光政

















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2012年07月08日(日)

中村白葉訳、トルストイのクロイツェル・ソナタを読む

テーマ:トルストイ

書物からの回帰

 [スペイン/マドリード美術館/ゴヤの"裸のマハ"の記念像]

僕の書棚に、日焼けした文庫本があります。この本もそのひとつです。しかし、この本の内容の記憶がほとんどありません。

裏の日付には、S48.10.28とあります。二十代初めの若かりし頃に購入して読んだのでしょう。読もうとした動機は「クロイツェル・ソナタ」というタイトルにあったのです。

クロイツェル・ソナタは、ベートーヴェンが作曲したバイオリンソナタですね。僕の一番大好きなバイオリンソナタです。

オイストラフの弾くクロイツェル・ソナタは最高ですね。

しかし、この本では残念ながら曲がもつ情熱的なイメージでの物語の展開ではなくバイオリニストと奥さんとの関係で旦那が頭にきて奥さんを刃物で殺害したという話の中で、ホームコンサートで取り上げられた曲、それがクロイツェルなのですね。

以下のさわりはこうです。

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その中で主人公ボズドヌイシェフは、「あなたはあの最初のプレストをご存知ですか?ご存知ですね!?」と叫んだ。「ララ!ラララ!・・・恐ろしい曲ですね、あのソナタは。とくにこの部分が。もっとも、一般的にいって、音楽というものはおそろしいものです!いったいあれはなんでしょう?わたしにはわかりませんよ。いったいなにをするものでしょう?またなんのために音楽は、現にしているようなことをするのでしょう?人の話では、音楽は人の魂を高めるような作用をするということです。でたらめです。嘘っぱちです!音楽は作用します、恐ろしい作用をします、----わたしは自分のことを言っているのですよ、------ が、それはけっして、魂を高めも低めもしません。ただ魂をいらいらさせるだけです。音楽は、わたしをして自分を忘れさせ、自分の真の位置を忘れさせます。わたしを駆って何か別の、自分のでない位置へ連れて行きます。わたしは音楽の影響によって、実際には感じないものを感じ、理解していないことを理解し、できないことができるようになります。・・・・」

=======================

このクロイツェル・ソナタを作品名にしたのは、ここから来ているのですが、この主人公ボズドヌイシェフが吐いた言い分は、妻殺しのきっかけとでも言わんばかりですね。

このバイオリンソナタは、ベートーヴェンの傑作中のひとつですね。ピアノとバイオリン奏者間の魂の融合がとても素晴らしいのですが、そうした演奏における二人の強い心の結びつきを夫としてのボズドヌイシェフには暗に許せないというところがあったのかもしれませんね。

作品を読む限り、奥さんはまだ不貞をしてなかったと思えます。ただ、夫のいない間に家に招いて食事をしただけかもしれませんね。

まあ、それが不貞の前兆といえば言えないこともありませんが、音楽を通して二人が仲良くなったのが許せなかったのでしょう。

ここで、この小説の翻訳者中村白葉氏の解説を読むと次のような箇所がありました。

「しかも、白状するがこの作は、はじめて読んだ時 (五十年前、東京外語の学生時代、二十歳のころ) には、私にはよくわからなかった。肉体的にまでぐいぐい迫ってくるような恐ろしい力強さは間違いなく感じたけれど、全体的に生活の経験の浅かった私には、深いことは何ひとつわからなかった。その後十数年以上を経て、二度目この作品に接した時も・・・・・・以下所略、それが、何年か前、年も六十をかぞえる頃になって・・・・」と、述べられています。

この作品を理解するには結婚生活を経験すること、すなわち、女性というものに対して、男が家庭を通した日常生活における妻と向き合うことの難しさを知った時、初めてこの作品の意味するところがわかってきます。 

そして他の女性と妻とを比較して見れるようになってからこの作品が面白く読めてくるもののようです。

この僕も、日に焼けた文庫本の始めのさわりを読み始めたら、面白くて・・・よし、再読しょうという気になりました。若かりし頃は、この最初の出だしから退屈していたのですから大きな人生経験の落差がありますね。

実は、トルストイがこれを書いたのは六十一歳だったようで、翻訳者も、そして、この僕もそんな歳になってようやくそうした内容に理解が得られた感があります。

トルストイの狙いは、別にこの妻殺しが主ではなく、男女間の果てしない課題を語り、そして己の意見を戦わせたかったようですね。

翻訳者の中村氏曰く、性愛を取り上げた作品であるとのことですが、別に肉体的なドロドロした内容の話ではなく、宗教、道徳、慣習、行政、そして社会的秩序すなわち法律など幅広い視野で性と愛がもたらす、男女間の社会的歪、あるいは個々の男女間の歪、そうした矛盾した実態に対して文学的に哲学思考でそれを掘り下げたのです。

それが出来たのもトルストイの家庭生活があってそれが基底となったからでしょう。トルストイの奥さんは世界三大悪妻に仕立てられていますが、やはり、この小説が書けたのも悪妻あってのことだと思いますね。

小説家では、夏目漱石も森鴎外も奥さんには参ったようですが、まあ、結婚してからの妻との付き合い方には難しいものがあるのは事実ですね。

さて、この小説には「 後語 」というトルストイのこの小説に関する所見がついています。

しかし、現在の世代の人がこれらを読んでもピンと来ないかもしれませんね。そもそも今の人はこの小説を読むこと自体ついていけないかもしれません。

現代人の宗教観も変わってきていますし、離婚も日常茶飯事になっていますから、男女間の関係も最終的に法律と金で片付きますからドライになっています。

結婚していても好きな人が出来れば簡単に浮気して離婚する人もめずらしくない世の中です。でも、そうしたことが出来なくて悶々とした人も多くいます。(笑)

色々なケースがあって、夫婦間がとても仲良くても浮気をすることもあるくらいですからまあ人のなせる行為にはいつの時代も制限がありません。

春にスペインを旅行した時、ツアー仲間に一人の未亡人がいましたが、その方は、大恋愛の末、ご主人と結婚され家庭においてもとても仲むつまじくされて、ご主人にとても尽くされたそうです。

ご主人は、肺がんでお亡くなりになったそうですが会社の役員をされていて、海外の出張が多かったようです。

ひょっとすると、仲むつまじかったのもご主人の出張という仕事のせいでお互いにある程度の物理的な距離間があったからかもしれません。

今は、結婚適齢期を過ぎた息子さんとご一緒に暮らされているそうです。今度は、息子さんに尽くされているようです。(笑)

さて、どんなに主人に尽くしたかをしっかり聞かされましたが、その方が、「あなた独身?」と聞いてきたので一人旅だったのでそう思われたのかもしれませんが、少し、むっとなって 「いえ、悪妻が一人います。」なんて言いました。

すると、「あら、奥様のことを悪妻だなんて!」と、笑ったので、今度は僕が、家庭内の悪妻との生活を述べることになりました。

スペインツアーは、VIPバスでの長距離移動が多かったのでバスの中では、ほとんどみなさんお休みされています。

高速道路から見た外の景色は、石ころや木々や緑の少ない痩せた土地ですから退屈です。

それで、悪妻であることの証明を家庭生活における事例をあげて、延々と話していたら。。。急に、その方は、「まあ!あなたの奥さんは悪妻じゃないの!」と、思わず声を上げました。

「だから、僕が最初から僕の妻は悪妻だと言ったでしょう?」と、僕が少し怒って言うと、バスの中では、失笑とくすくすとした笑い声が聞こえてきます。なんのことはない、傍耳を立てて聞かれている方もおられたのです。

話をトルストイのこの本での問いかけに戻しますと、トルストイが言わんとして語ったことと現代の世相とはいささかのギャップがありますが、僕がこうした問題に関心を寄せていることに次のことがあります。

それは、夫婦間の不貞ということに関しては、今の日本の法律では、性交があったという事実、あるいはそうしたことが必然的に考えられる状況証拠があった場合に適用されるようです。

ですから、ただ、手を握ったとかキスをしただけでは適用されません。もちろん、ラブレターや電子メールでの愛の告白だけでもダメです。その文面の内容中に二人が出来てしまった関係が書かれていたら、それは証拠となりますがそうでない愛の告白だけでは適用されません。

つまり、日本の法律で照らすと主人公ボズドヌイシェフは、そうした妻の不貞にあたる事実もそれをうかがわせる証拠すらないのですから、殺人の罪で軽い刑で釈放というわけにはいかないでしょう。

法律は不思議なもので定量、定性的に判別をしょうとします。これは科学と同じですね。現代の法律はやはり科学的な手法のもとで平等を保とうとしています。

愛し合った二人のキスとただの肉欲的な性欲で走った性交とを比べたとき、果たして後者が不貞であって前者はそうでないと言えるのか?という言葉を超えた大きな疑問が生じます。

法律は、精神的な愛を前提として性交を行ったものとして扱っているのでしょう。しかし、「精神的な愛」が無い場合は、不貞とはならないとしたら、今度は「精神的な愛」があったかどうかの立証が難しいですね。

だから、法律はそこを触れていないのでしょう。その代わり、偶発的な浮気では不貞行為には該当しないとした見解もあるようです。つまり、ある程度の継続性があるというのが条件ですね。

こうした法律を通した見解からすれば、日頃、夫婦間が不仲の世の男女は堂々と家庭を出たら他の男女とお付き合いをすればいいのですね。しかし、一線を越えたらダメですね。

でも、恋すると段々深まってついには、別れてでも一緒になりたくなるのは世の常ですね。そうして、一緒になるとまた同じ繰り返しになったりして!(笑)

しかし、たとえそうした純愛であっても第三者がそれを見つけたとき、あそこの奥さんは、あそこのご主人と仲がいいなどとうわさを立てられますね。

そうなると、すぐに道徳的に如何なものか?とか、倫理が無い!ということにもなる。

つまり、世間の目はそれが許せないのか、うらやましいのか?わかりませんが、いらぬおせっかいをするものです。

純愛といっても色々な二人の付き合い方があります。芸術を通した共同作業の中での愛の交換すなわち音楽では合奏、スポーツを通した心の交流、習い事のグループ間でのコミュニケーションを返した愛のメッセージ、仕事とのつながりからの心の助け合い。

はたから見ると気が付かないか?薄々、あの二人仲がいいねぇ~と、表面上そう思われる程度で収まります。

しかし、心の中では二人はとても愛しているとなると、とり残された夫婦のもう一方は、どうなるのでしょう?

そうなれば、遅れずにもう一方の方もそうした外に向かった純愛を求めればいいのですが、なかなか、それが出来ない非社交的な方もおられますね。

しかし、それがたとえ純愛であっても自分の妻、あるいは夫とは違う外の男女を愛するとなると、良心の呵責が自然と発生するものです。

それは何故だろうと考えると、『思いやり』というものが心の中で起きるからでしょう。他の人を愛することで伴侶がそれを知って悲しむとしたらという思いやりが起きると良心の呵責が起きて当然でしょう。

だから、そうした『思いやり』の無い人にとっては、良心の呵責が起きるはずもありません。

人を愛することは『思いやり』の表現でもあるのに、それが為に別な『思いやり』で呵責が発生するとは不思議なものです。

人は純愛であっても一人の人しか愛してはいけないのか?という問いかけも出てきます。

逆に、純愛だからこそ、唯一あなただけ!となるのでしょうか?

映画やテレビドラマでの純愛は、必ず、一対一ですね。一対一だからこそ、視聴者も製作者も純愛だと認めているのです。

つまり一途ということですね。どうして複数ではダメなのでしょうか?

現実として、これが複数を愛している主人公だと脚本が成り立ちませんね。(笑)

「愛」という見地でとらえると愛することは別に人間だけでなくすべてに掛かってきます。但し、自然なものが対象でしょう。SFではロボットに恋をする話もありますが、その前提はロボットにも心があることが想定ですね。

ロボットに心があれば、それはもう人工知能を超えた意識を持った生命体に等しい。だから、これは少しおかしな話になります。

さて、その自然なるものの身近なものとしては、ペットであったり庭の花壇の花であったりするわけです。そして、わが子や親戚の子であったり、年老いた両親であったりするわけですね。

生きている以上、こうした自然のすべてを愛することは何の罪もありませんし、むしろ、自然に対する『思いやり』は善いことですね。

その自然の一部として、男女間も位置しているわけですから、そうした考えでいけば、たまたま、相手が男女同士の『愛』であっても問題は無いはずですが、その『愛』がただならぬ愛に変調していくことが問題となるのですね。

その変調とは、お互いの魂が段々密になってしまうことを指すのでしょう。無数の中からたった二つの愛し合った魂に絞られていく過程で、それが社会的にすなわち、道徳、宗教、法律などにおいて許されるものか?ということになっていくのですね。

飯塚のあの白蓮事件は、愛と社会的制約の結末が駆け落ちということになったようですが、やはり、心をお金や権力、そして法律でも抑えきれない人がいるということですね。そうした人は社会的制約にも屈しない意志が働くからでしょうが、それは愛する力がそうさせているのでしょうか?

普通出来ないことですが、花も犬も人間もほぼ同じ情熱で愛して生きることが理想なのでしょうが、やはり、生身の人間にとっては男女間の愛だけは特別なものになるようです。

それが自然なのでしょう。

by 大藪光政
 
 

 
  
   
 

 



    










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