最近よく言われる言葉に「無縁社会」があります。
 昔より人の繋がりが薄れたのは事実だと思いますが、マスコミによって誇張されている部分もあるのではないか、という気もします。
 どこに住んでいても町会を始め地域の活動は月に何度もあるでしょうし、老若男女問わず人を求めているボランティア団体も数知れません。縁を欲しても得られない社会では決してないと思うのです。
 
 しかし誰が悪い、どこに責任があるという話をしたいわけではありません。
 現代社会に於いて良くないものとされる「無縁」ですが、お釈迦様在世中のインドにおいてはむしろ理想に近い形でした。
 若い頃ある程度社会的な役割を果たしたら、それ以後は世間から離れて暮らし、やがて死んでいく。このような生き方は望ましいものとされていたのです。
 

 ただ、この様な生き方ができたのはインドの特別な事情があっての事であり、仏教が世界各地に広まり、また時間も経っていくと「無縁がいい」というのは現実的でなくなりました。
 すると必然的に生涯を通じ多くの方と関わりながら暮らす事になりますが、その結果我々誰もが持つ「人間関係の悩み」が生じます。
 

  お経にも「どう人と接すれば良いか」に関する教えが沢山説かれています。
 例えば、日蓮宗が拠り所にしている「妙法蓮華経(法華経)」の第二十五章「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん・有名な「観音経」です)」には、どんな人であっても、それはあなたを高めるために現れた観音様かもしれない、という考え方が説かれていますし、第二十章「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさっぽん)」には、「いつか必ず仏となる、そんな尊い存在だから」と全ての方を拝む常不軽菩薩の生き方が説かれています。

 突然拝まれた相手の中には、馬鹿にされたと勘違いし暴力を振るう人もいたのですが、そういう相手からは逃げ、菩薩はなお拝み続けます。
 

 つまり悪人やそりの合わない人と積極的に付き合う必要はないが、それでも全ての方を尊重する心は持っていなさい、と説かれているのです。
 

 NHKの「無縁社会」で、孤独に生きてきた男性がボランティア活動や小学校への贈り物を始めた所、子供たちから沢山のお礼状を受け取り、「自分は一人じゃない」事を実感したというエピソードが取り上げられていました。
「誰かに喜んでもらう生き方ができれば、自分だって幸せになれる」というのは、「菩薩行」という仏教のとても大事な教えです。この男性は、意識せずその教えを実践したのだと思います。
 

 なかなか気がつかないだけで、幸せのきっかけは毎日至るところにあるのかも知れませんね。

 
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