法華経には、「法華七喩(ほっけしちゆ)」と呼ばれる七つの例え話が出てきます。

本日はその中の一つ「長者窮子(ちょうじゃぐうし)の喩え」のお話です。第四章「信解品(しんげほん)」にて語られています。概略は以下の通りです。

 

『あるところに父子が住んでいました。しかし息子はある日突然、父を置いて家を出ていきました。

 父は心配しつつ帰りを待っていたのですが、いつまで経っても息子が戻ってこないので、後を追うように自分も旅立ちました。

 

 しかし広い世界の事、息子を見つける事は叶いません。やがて立ち寄った町で商売を始めたところ大成功を収め、結局長者となって町に住む事になりました。

 一方息子は諸国を巡る間に失敗も重なり乞食同然に、そして心も卑屈になっていきました。

 

 そんな息子は偶然にも父のいる町を訪れ、長者となった父とその豪邸を目にしますが、「こんなに大きなお屋敷に住んでいるお金持ちは、きっと恐ろしい人に違いない」と思い込み、その場から逃げ出してしまいました。長者が父だと気付かなかったのです。

 

 一方の父は、逃げ出す男の姿を見てそれが息子だとすぐ気付き、家来に後を追わせ、こう言わせました。

「おい、いま行くところもする事もないなら、あのお屋敷に行ってみないか?仕事があるし、住むところも用意してくれるみたいだ」

 息子は、それは私にも良さそうだと思い、住み込みで働く事にしました。

 

 それから長年毎日一生懸命働き、不平不満を言う事も、悪事をする事もありませんでした。

 ずっと仕事を続けましたが、長者が実の父だと気付く事はなく、父もまた名乗ることはありませんでした。

 

 ある時長者は自分の命がもうあまり長くない事に気付き、家の人たち全員を集めて宣言しました。

「残念ながら私の命はもうあまり長くはありません。そこで私は全ての仕事、そして財産をここにいるこの男に譲ります。

 今までお伝えしませんでしたが、この男は何十年も前に生き別れた私の実の息子なのです」

 それを聞いた男は真実を知り大変驚き、そして望んでもいないのに沢山の財産を得たことを喜びました。』


この例え話において、父はお釈迦様、息子は弟子、財産は悟りを象徴しています。


 弟子がお釈迦様に従って修行を続け、「あなたは必ず将来仏になる」と保証を頂いた、その喜びを喩えたお話なのです。

 ここで一つ大きなキーワードとなるのが「仏性(ぶっしょう)」という言葉です。これは「仏になる種、仏になる可能性」と言い換える事もできます。

 

 仏教では、「誰もが仏になる種を有している」と説いています。

 先ほどの息子は、日々仕事を一生懸命する事によってその「仏性」が磨かれていったのです。

 仏教の修行というと特別なもののように思いがちですが、日常の仕事、家事、勉強、そういったものも集中して一生懸命行えば仏道修行になりうるんだ、という事もまた大事な教えだと思います。

 

 決して不平不満を述べなかった、というのも重要な点です。仏教では不平不満など怒り全般を猛毒だと捉えています。怒りは自分の身を焼いてしまうというのです(もちろん、どんな理不尽な事でも黙って耐えろ、という事ではありません)。

 

 昔あった嫌な事を思い出し、イライラした経験は殆どの方がお持ちかと思いますが、イライラしても過去は変わらず、結局心身が傷つくだけです。そんな自分だけ損する事はやめなさいよ、というのも仏教のメッセージです。

 こういった事を知っていたから、息子は悟りへの近道を歩けたのでしょう。

 

 唯一残念だったのは、初め卑屈な心でいた、という点です。仏教では傲慢になる事を戒めていますが、卑屈になることもまた戒めています。自分を低く見てしまうと出来る事も出来なくなってしまうからです。

 

 しかし自分を客観的に見ることはとても難しいですね。お墓や御位牌の前で手を合わせる際、亡き方々の視点を借りて、改めて自分自身を見つめ直してみたいものです。


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