建国記念の日 ~ パラオ | My Aim Is True

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昨日の続きを書こうかと思いましたが、今日は建国記念の日なので、そんな日に韓国の記事を書くのも何なので止めました。


2月11日は戦前は「紀元節」と言われ、その由来は「日本書紀」において、初代・神武天皇が即位した日とされているからです。

戦後はGHQの日本精神・神話解体政策によって廃止されるも、独立後、自民党議員らの議員立法として「建国記念日」制定の法案が何度も出されましたが、国家解体を理想とする左翼政党・社会党(現在は民主党と社民党に分裂)の「戦前回帰。保守反動」という反対に遭います。その後、法案の提出と廃案を繰り返した後、「建国記念」と名称を変え、「建国されたという事象そのものを記念する日」と解釈できるようにして、社会党に妥協させ、1967年から無事に祝日になりました。

しかし、よくもまあ左翼全盛の戦後日本で神話的要素の強い日が「建国記念の日」という祝日になったものだなぁと思います。

1976年になっても渡部昇一氏が「古事記」に関する本を出すと、朝日新聞社は「危険な本」と批判していましたし、ほんの10年前でもサッカーのW杯で日本代表を応援しているサポーターを見て、「危険なナショナリズム」と批判していたくらい。


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現存する最古の「日の丸」は1000年ほど前の後冷泉天皇の頃のものであるらしい。史料で証明できるのは、1300年ほど前から「日の丸」を確認できる。

日教組教師に言わせると、「は日本軍によって殺された人のの色、白は日本軍によって殺された人の骨の色であり、軍国主義の象徴」だそうで、日教組の強い東京国立市の小学校では生徒に「赤は血の色、白は骨の色」と子供たちに復唱させて問題になっている。

言うまでもないが、「日の丸」は太陽を表している。

日本の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽の神であり、日本古来からの太陽信仰からしても、「日の本」「ライジング・サン」「日出ずる国」を美しくシンプルに表現した国旗といえる。

明治初期、このデザインに惚れ込んだフランス政府は日本政府にこのデザインを売って欲しいと願い出たほどである。


1913年、メキシコで軍事クーデターが起き、大統領は殺され、大統領夫人と子供たちが日本公使館へ逃げ込んだ。公使館の周りに押し寄せ、大統領家族の引渡しを要求する武装革命軍であったが、堀口九萬一公使は表に出て、公使館の玄関に「日の丸」を敷いて、自らも立ちふさがり、革命軍に対し、

「彼女たちを捕まえるというのなら、私を殺し、日本国旗を踏みつけてから中に入るがいい! 日本と戦争をする覚悟でやれ!」

と一喝すると、その迫力に圧倒された革命軍は引き下がって行った。

「日の丸」を踏みつけて行ったら、日本国民が黙っちゃいないぞ!ってことでしょう。

ちなみにこの時、堀口公使は革命軍のリーダーに、「懐に入った窮鳥は殺させない。これが日本の武士道だ」と言い放ちます。

川に落ちた犬は棒で叩け」という中国や朝鮮とは異なる価値観でしょうね。


まあ、現在ではこんな国もいます。


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ただ、昨年、靖国神社を訪れた際、若いウヨク(?)の日本人(?)が「中国」国旗を踏みつけていて、それを外国人がビデオ撮影していました。

そんな中国人・韓国人みたいなことをするんじゃねぇ!

お前らは日本の恥だ!

と思いました。


さて、下の国旗はどこの国の国旗かわかりますか?


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答えは、南太平洋の島国・パラオ共和国の国旗である。

パラオは第1次大戦後に日本の委任統治領となり、日本人も2万人ほど移住し、親交を深めたため大変、親日的な国である。

パラオは1994年に独立国家となったが、国旗の選択に大変苦労したそうだ。

最終的にこのデザインに決まったのは、

「日本の国旗に一番似ていたので、最大の人気が集まった。日の丸の部分を黄色にしたのは月を現す。周囲の青地は海を意味する。月は太陽が出ないと輝くことが出来ない。つまり、月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。太陽とは日本のことである。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。

我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。1万に及ぶ英霊たちは私たちに、勇気と国を思う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである」

とのことである。

ちなみに月が中心よりズレているのは、同じでは日本に失礼だからとのこと。


パラオと言えば、日米によるペリリュー島の大激戦がある。アメリカの激しい爆撃によって島が変形したほどであった。

こんなコラムが某新聞に載っていたそうだ。


<遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこで、みんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。

老人は村の若者たちと共にその作業に参加した。

日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


やがて戦況は日本に不利となり、

いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

仲間たちと話し合った彼は代表数人と共に

日本の守備隊長のもとを訪れた。自分たちも一緒に戦わせて欲しい、と。


それを聞くなり隊長は激高したという。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・見せかけだったのか。

裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。


船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。

村の若者たちは、悄然と船に乗り込んだ。


しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

そして、一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。

先頭には笑顔で手を振る、あの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。

あの言葉は、自分たちを救うためのものだったのだと・・・。>


ペリリュー島を守る日本軍は約1万2000名。それに対しアメリカ軍は制海権・制空権を握り、15倍の兵力を有し、航空機、戦車など圧倒的な戦力を持って臨み、「攻撃は2,3日で終了」と予測していたが、僅かな兵器で日本軍は73日間も奮闘し、戦闘が終わる頃にはアメリカ兵の犠牲者は日本兵の2倍になっていたという。


ペリリュー島には日本兵の英霊を祀るペリリュー神社(1994年建立)があり、そこに大戦時、アメリカ軍提督だったニミッツの詩文が残されている。


「諸国から訪れる旅人たちよ

この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い

そして玉砕したかを伝えられよ

米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」