カマキリの卵から落ちこぼれ・・ | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

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カマキリの卵を見かけると思い出す。小学生の頃、これが何だかわからず数個家に持ち帰ったことがある。そのまま忘れていたのだが、夜中に母が大騒ぎするので目を覚ましたら家中カマキリの赤ちゃんだらけになっていた。大きさは数ミリで、よく見ないとわからないのだが一匹が母の鼻の穴に潜り込んだらしい。それからしばらくは家中カマキリが出没していた。当然いつものようにこってりとお説教されたが身に覚えがなかった。何か異変が起きると野人のせいにされるのは慣れている。何だかよくわからないが素直にごめんなさいと謝っておいた。それから数日して事件の震源地が判明した。持ち帰ったこの泡の塊から「カマチビ」がぞろぞろ這い出していたのだ。いや、ヨタヨタしながら落ちこぼれていた。2個は既に抜け出した後でそれが騒動の元だった。どうりで次々に湧いてくるはずだ。それ以来卵を家に持ち帰ったことはない。スズメバチやアシナガバチの巣を持ち帰ると叱られるのはわかっていたがカマキリも駄目だ。しかし、山で大きなコガネグモを捕まえて来て、庭に直径2m近い巣を張らせて、夏休みはせっせとトンボやセミなどのエサを与えて太らせていたのは大目に見てくれた。学校に持って行って喧嘩させる為に育てていたのだが、男の面子は容認してくれたようだ。当時の子供達は、黒に金色の横縞があるコガネグモのことを「レーラ」と言って崇拝していた。糸も強靭で最強の喧嘩蜘蛛だ。巨大になればそれはもう神に近く、モスラを育てるようなものだった。大きくなると足を広げると手の平くらいになり、胴体の大きさは腕時計くらいにはなる。クモの卵の家の中への持込も当然禁止されていた。子供にとって虫や鳥の卵は好奇心の塊で、何が生まれるか面白くてたまらないのだ。創造力は好奇心から生まれる。しかし今はそんな時代でもないようだ。庭で巨大なクモを放し飼いにして、せっせとオニヤンマやクマゼミを与える小学生もいないだろう、塾が忙しすぎて・・・何を学ばせるのか、主導権を握っているのは親であり、子供の人生をも左右する。物質的な豊かさを求めれば、良い学校、良い会社が最終目標になるが、それが人間として幸せなのか、最近の世の中を見ていて考えさせられる。塾も通わず、ノートも持たず、英語の辞書すら開かず、ロクに勉強もしなかった野人は「落ちこぼれ」の部類に入るだろうが、そう思ったことなどない。精神的に豊かで十分幸せだ。具体的に一つだけ挙げるなら、世の中の食い物で、自在に獲れないものなど何一つないと言うことだろう。食い物に困らないと言う事は生きてゆく自信に繋がる。さらに自在に調理して食を楽しむことが出来ればこれ以上の面白さはない。人間の持つ可能性は無限大、何が出来るか、何を残したかではなく、自分の未来の可能性を信じられる事が「自信」だと思っている。