平均年齢65歳以上の日本の農業 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

農業がこんな高齢化した国は世界中探しても他にはない。後継者が育たないからだ。遠洋はともかく沿岸漁業も同じだ。農業も漁業も10年先が見えている。体はきつくなり、自然災害、獣害、病気などの問題が増えて生産量は減少し、農水産物の価格は上がらない。若者がやっても重労働で収入が少なく、まして先が見えなければ誰もやらない。これでは後継者がいないのも当然だ。親もそれを望まないだろう。長年引っ張ってきた農水省に先を見る力がないと言えばそれまでだが、現状から見ればやり方が間違っているとしか言いようがない。何とか頑張っている人も多いのだが、一次産業が世界一衰退している国なのだ。結果、食料自給率が先進国では最下位だ。他の産業と違って、一次産業は人類の最初の産業であり、生きる為に必要なもの。そこから集落は生まれ、文化も科学も発展してきた。他とは問題にならないほどの時間をかけて進化してきたはずなのだ。果たしてそれは本当に進化なのだろうか。農業機械、農具、漁具の進歩は目覚しい、もうこれ以上は必要ないくらいだ。過度の機械化は人も資源も破滅に繋がる。他に農業で進歩した分野は肥料や薬品だろう。しかし今日に至っても次から次に問題が発生、追いつかない状況でまるで自然界とのイタチごっこだ。そろそろ気が付いても良いのではなかろうか。人知が自然界の仕組みに適うはずがない。他の産業のように自然界は物質ではないから今の物理や化学は太刀打ち出来ない。電気の仕組みすらよくわかっていない人間が電気の塊の植物を相手にしているようなものだ。おぼろげにわかる頃には農業は消滅しているだろう。山村の過疎化が深刻なように本来の集落も消滅する。

森羅万象の原点に戻って本質から見直せば今の農業書はまるで役には立たなくなり、農業技術の根幹を揺るがす。それをやれば農学者も農水省もそれほど必要性がなくなってしまう。農協も経営が成り立たなくなってしまい農家以外で潤っている関連産業も衰退する。

国民の台所を賄うには、今は近代農法も廃物を処理する有機農法も必要だろう。経営が成り立っている農家はそれで良いのだが圧倒的に多いのは小規模農家だ。それらを何とかしなければ農業の未来はなく、環境汚染も改善される事はない。目的に応じた野菜が理想だが、全員が一律的に野菜を「作る」「立派にする」「食べやすくする」「美しくする」方向に走ったのがこの現状を招いている。農水省、農学者、生産者、消費者、流通業者全体の責任だろう。全員がこの現状を「間違ってはいなかった」「仕方ない事だ」とあきらめるのだろうか。さらに、農地を荒廃させるだけでなく、このまま大地に薬品を撒き続けて環境汚染も継続するのだろうか。誰も責任をとろうとしない。皆で赤信号を渡っているように思える。今さら小細工してもどうにもならない。もう無駄な研究努力する時間などない。農業はタイムリミットに来ている。勇気を出して「根本的に間違っていました」と宣言する人は一人もいないようだ。どの時代から、どの部分が間違ったか考えればわかるはずだ。

野人の自然循環農法は、畑を一度耕して整備したら後は自然界にやらせる。後は草をどう活かしてつきあって行くかだけだからこれは植物学者のほうが専門だ。微生物や細菌の種類がどうのこうのとややこしいことなど必要ない、その土地に集まるものが一番理に適っている。農家がやることは草と野菜の相性、組み合わせを自分で観察研究すれば良い。つまりこうすれば良いなどという方法はないのだ。地域と気候で土壌の条件や草の種類が異なるのは当たり前のこと、野菜の生育も味も形も違ってくる。スーパーや農協の野菜の基準に合わせることは無意味で、それに労力と経費を費やすから農業は成り立たない。有機物は植物が作るもので人が作るものではない。そもそも収穫労力はともかく、手間や経費などそうかかるはずがないのだ。植物や野菜も年間を通して順に次から次へと生えてくる。今の畑のように土がむき出しの長期休日などはない。原料を買わずにタダで出来るのは「農業」だけなのだ。国民は健康で安全な野菜を求めているが今の野菜は程遠い。何がおかしくてこうなってしまったのか考えて見ると良い。野人の言葉は間違っていないと思うのだが・・・