争う心 争わない心 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

昨日、ある港で十数年ぶりに偶然、喧嘩友達に会った。

同じ船乗りだが、厳密に言えば喧嘩にはなっていない。

30代半ば、彼との摩擦を境に人と争う事を放棄した。

それまでも怒ることはあっても自分から仕掛けたりする事はなかったが、凶器などから身を守る事は何度かあった。

決して後には引かないのだ。

彼は非常に懐かしがり、港でしばらく話し込んでしまった。

彼は地元でも有名な暴れん坊で、ある日、海上で部下とのトラブルがあり、船で乗り付け凄い剣幕で怒鳴り込んで来た。

全員を室内に入れ、一人桟橋で応対した。

「野郎を出せ!」と怒鳴り散らし、罪状をまくしたてた。

別に彼に恨みがあるわけではないので黙って言い分を聞いていた。

部下達は「一撃で海に放り込むシーン」を期待していたのだが期待には沿えなかった。

無茶苦茶な道理もあれば、なるほどと納得する部分もあった。

要するにどっちもどっちなのだ。

部下を出さないと言い切った以上、かかってくれば相手をするつもりでいたが、彼は20分近く喋り続けた。

そしてスッキリしたのか、熱かったトーンが下がってきた。

そして最後に「悪かったなあ、よう話を聞いてくれた、考えたら俺も悪いとこもある、あいつに謝っといてくれ」そう言って帰って行った。

その時に何かが開いた。

人は皆違う考え、生き方を持っている。

価値観が違うのも当たり前のこと。主張を曲げなければ激突は避けられない。

曲げないという事は相手を認めないという事だ。

当然友人同士でもいさかいは起きる。

国会議員などは年中言い争いをしているが、見苦しくてついチャンネルを変えてしまう。

「そうか、やっと気がついた、私が間違っていた」などと言うシーンは絶対にないからだ。

平行線の議論を聞いてもうっとおしいだけだ。

相手を認めないから自己主張しかない。

言い争いはしこりを残すし、殴り合いは双方痛みを伴う。

「認める」ことを徹底したら争う事がなくなった。

県の会議に出ても主張もしないし議論もしない。

決着などつけられない。

自分の言った言葉は自分で責任を持てば良い。

正しいも間違いもないのだ。

やってみなければわからないこと。

川上源一の考えが少しだけ理解出来た。

思いやりとは、たとえ自分が理解出来なくても相手を認めることではなかろうか。

そうすれば争いもなくなり、いつかは相手も認めてくれるだろう。

社会とは、全く異なった考えの人間が大勢暮らす共同体なのだ。

離島の人々がなんだかんだ言いながらも一つにまとまるのは「生きて行く為」だ。

主張の争いが裁判にまでなり結審、司法の判決が出ても「そうか、こっちが間違っていたんだ」などと反省する人などほとんどいないだろう。

「絶対にあの裁判はおかしい」となる。

それくらい人の「思い」は強く、翻せないものなのだ。

それが当然だと理解出来れば争う事も減るだろう。

祖父の遺言で「男は腹にドスを呑んで生きよ」と言う言葉が理解出来た瞬間だった。

彼とのやりとりからそれを学び、明らかに生き方が変わったことは間違いない。

争わなくなったのだから。

いや、争いの原因を作らなくなったと言うほうが正しい。