伊勢正三 幼馴染の記憶 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

何年か前、80近い母からテレビをつけろと電話があった。

「正三君が歌っている、あれは間違いなく正三君だ」と。

母は彼が歌手になった事を知らなかった。伊勢正三は南こうせつ等とかぐや姫を結成、なごり雪を作詞作曲、映画にもなった。

彼は中学に上がる時に津久見から大分へ転校して行った。

「正ちゃんは昔から歌手だ」と答えたが、40年も前のことを、しかも今は眼鏡をかけてヒゲも生やしていたのだが母は覚えていた。

小学生と中年ではかなりの差があるが母にとっては忘れられない記憶なのだろう。

野人にとっても記憶はその事件から始まったと言っても良いくらい鮮明に覚えている。

小学校に入る前、年上の正ちゃんによく遊んでもらっていた。

母はいつも「この子を頼むね」と店のお菓子をあげていた。

近所の中学校で彼の友人二人と共にかくれんぼをしていた時に事故は起きた。

大きな音がしたので駆けつけると、正門の石柱が倒れ、彼の友人は側で四つん這いのまま動かず、周りは血の海で頭が半分なかった。

近所の人が大勢駆けつけたが呆然として手が出せず遠巻きにして救急車を待った。

そこへ母が店の脱脂綿をたくさん持って駆けつけた。

中に割って入りその子を抱きかかえ、脱脂綿で流れ出た脳や頭髪をすくい取り、頭の中に戻していた。

そして「痛かったろうねえ、もう大丈夫、よしよし・・」と、救急車が来るまであやすように抱きしめていた。

母の白いエプロンは血で真っ赤に染まっていた。

野人は側で母の袖を引きながら「母ちゃん、駄目だよ、石ころが頭にいっぱい入ったから出さないと・・」と言い続けたが母は、「いいんだよ」と何度もつぶやいていた。

その時の顔は微笑んでいたように記憶している。

それ以前の記憶はないからそこから人生が始まったと思っている。

それから大人になり海難事故や土砂災害の遺体に接する時には素手で抱きあげ、必ず「ごくろうさん、よしよし」と語りかけるようになった。

悲しみや同情の気持ちよりも「生をまっとうして肉体を使い終えた」ということに対するねぎらいの気持ちのほうが強い。

あの時の母もそうやって命の終わりを諭し、彼の魂を天に送り届けたと思っている。

それから母は、何度か思い出したように「正三君に会いたいねえ・・」とつぶやいていた。一昨年だったか、ヤマハのリゾート施設「つま恋」で、吉田拓郎とかぐや姫が、かって8万人を集めた伝説のライブを再現した。

そこへ飛び入りで参加したのが中島みゆきさんだった。

彼女とは昔、仕事で三日間、遊びも食事も一緒に過ごしたことがあり、こちらが年下なのだが何故か「お兄さん」と呼ばれていた。

元の会社での幼馴染と知人の共演を見ているのが可笑しかった。

中島さんと遊んだ島で、前述の海難事故があり、遺体を海から揚げた時に小さい頃の記憶と正ちゃんの顔が浮かんだ。

妙な巡りあわせだと感じながら伝説のライブを見ていた。ベールに包まれた中島みゆきさんの話はまた後日に。