日本の沿岸漁業を支えたボラ | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

 

ボラは出世魚の王様だ。

ブリ、スズキと並ぶ3大出世魚の中では頂点に立っていることはあまり知られていない。

 

ブリが助さん、スズキが格さんなら黄門様がボラになる。

異議を唱える人は多いかもしれないが、日本の漁業の歴史はそうなっている。

次々に変わってゆく名も日常会話の中に溶け込んでいた。

 

「おぼこい」や「イナ背な若者」はあまり使われなくなったが、「トドのつまり」は今も使われている。

他の出世魚にはそれはない。

ボラを「神事」に使う漁村の神社もあり、ボラの大群を発見する「ボラ見やぐら」も岬には残っている。

 

伊豆の漁業の発祥の地は真鶴で、ボラ漁から漁業が始まった。

ボラは日本人に密着した貴重な資源だったのだ。当然その味は抜群に良い。

では何故今のように嫌われてしまい、汚染魚の代名詞みたいになってしまったのか、原因は人間にある。

 

沿岸の代表魚ゆえに、スズキと同じように汽水にも強く川にも上る。

スズキも、鮎のような上流までは行けないが、鮎を追って信じられない場所まで上ってゆく。ボラは潮が届く位置くらいまでだ。

クロダイと同じように雑食性で何でも食べるが、鯉のように泥の中の生き物を好む。

 

つまり河口を好むのだが人間により川は汚染された。

生命力の強さが災いして、汚い水に住む魚と言うイメージが定着してしまった。

漁業の文献にも、博物館にもボラ漁の資料や漁具は圧倒的に多い。

 

冬になると河口の橋の上からボラを引っ掛ける人をよく見かける。

その人達は寒ボラの味を知り、ボラが好きな人だ。

ボラは冬になると脂が乗り、目に幕が張り、おぼろげにしか見えなくなる。

色んな色のビニルを付けた引っ掛け針をユラユラ動かしているだけでボラが体当たりして引っかかってしまうのだ。

 

ボラを三枚におろすと本当に綺麗な色をしている、魚のほぼ全種をさばいてきたが、ボラの身はマダイやイサキにそっくりだ。

いたずら心で何度も実験したが、寒ボラの刺身と天然マダイの刺身を両方食べさせると例外なくボラに軍配があがる。

 

野人は褒めてあげる。「いやあさすがに舌が肥えている」と。

得意満面になったところで、「やはりタイよりボラが旨いだろ?」とやるものだから相手は苦笑いするしかなくなる。

 

これが春の「桜鯛」の時期になると味は逆転する。

産卵前の天然マダイはやはり魚の王者だ。

産卵後は脂が抜けて秋までは普通の味。

それでも腐ってもタイと言われるくらい値段は変わらない。

 

天然マダイを食べるなら春に限るが、海域、サイズ、固体により大きく味が変わるのが自然の道理。

一度食べただけで判断しない事だ。

 

養殖のマダイは1年以内に出荷しないと採算がとれない。

そして脂の乗りは年中変わらず安定しているが、味は天然マダイには到底およばない。

 

天然物は活きた海老やかにやイカを食べて4年で1キロに成長する。

運動量も豊富で冷たく深い海を好み色も鮮やかだ。

小さい頃は魚屋が売りに来たボラがご馳走で大好きだった。

脂の乗った刺身に味噌汁が旨くてアジと並ぶ大好物だった。

 

河口のボラは釣り人が釣るだけで流通することはない。

カラスミを採取するボラ、たまに首を折って血抜きしたボラは外物か、内湾の定置網にかかったもので、何ら他の魚と環境は変わらない。

 

偏見でボラを毛嫌い、排除するのではなく、もっと海洋民族日本人の歴史を見直し、ボラに市民権を与えて欲しい。

そうすればどれだけ日本の沿岸漁業が助かるかはかり知れない。

 

大量に上がるボラはどんな料理にも使える。わけのわからない輸入魚よりはるかに味は優れている。

カラスミだけとって身を捨てることは、昔のアメリカのように油をとる為にクジラを殺すのと似ている。

養殖されるチョウザメだって身は活用されている。

 

外洋を旅してきた大きな天然のボラが、養殖のチョウザメに劣るはずがない。

食の原点に帰り、足元の視点で魚を見直してもらいたいと思っている。

漁業を救うのは消費者だ。