#78の続きです。

色々と話したいことはたくさんあります。

人間と犬の間も、決まりを作っていかなければならないこともたくさんあるんですね。

人間の子供でもそうですよ。
「好きなようにしたらいい。」と子供に言いますでしょ。
そんなことはできっこないですね。
子供が裸に外に飛び出したりね、
ご飯の時に暴れて立ち上がって手づかみでご飯を食べたり、
トイレにお尻を拭かないで帰ってきたり・・・それはさせませんよね。

つまり、「好きなようにしなさい。」というのは、
ある決まりを持ってその中で、自分の思うようにしなさい、ということなんですね。
躾をいうのはそういうものでありまして、
人間と犬の間にも「こうしちゃいけない。」ということはたくさんあります。

それをさせない、ということ、それもまた立派なことなんです。
だから前足を肩にかけようとする犬に
「やっちゃいけないよ。」ということを言いますね。それを教えますね。
すると、それがその犬との非常にプライベートな理屈になるんです。
それが大切なんです。
それは、その飼い主とその犬だけの問題なんです。

ところが、このアメリカのミランさんは、
これを一般に敷衍しようとするんですね。
そしてそこから、理屈を組み立てようとするから大きな間違いができてくるんです。
ここをよく考えていただきたいと思いますね。

私がアイルランドにアイリッシュウルフハウンドというのを見に行きました。
あれは、世界一背の高い犬なんです。
その背の高さを示すために飼い主は名前を呼んで
前足を肩にかけてもらいたいんですね。
そうするとアイリッシュウルフハウンドの顔は飼い主の顔より上にくるんですよ。
それを知らない人に見せたり、写真を撮ったりするために、
飼い主はそれをさせたくてさせたくて仕方がないですね。
そのトレーニングを必死でやっているんですよ。


肩に手をかけたからといって、ウルフハウンドが飼い主の主人になることはありません。
むしろ、それがゲームになっているんですね。
そして、その飼い主と犬との間の契約になっていくわけですよ。

僕の場合は、犬が来ます。
そして前足をかけてくれます。
「よく来たね」と抱きしめます。
その次に、僕のことですかから、「タンタラランラン♪」です。踊るんですよ。
僕は犬とたくさん踊りました。

でも、犬の股関節は立つようにはできていないんですね。
あれは4本の足で立つようにできているものです。

ですから、歳をとってくるとできなくなるんですね。
で、僕はその犬の前に立ちましてね、「タンタラランランラン♪」と言うと
悲しそうに「ううーっ、ワンワンワン」ってなきます。
それはね、
「いっしょにダンスしたいよ。ダンスしたいよ。でも僕もうできないんだ。」
って言ってるんですね。切ないじゃありませんか。

そのような契約、会話というのはプライベートなものでありまして、
これを一般に理論的に敷衍してはなりません。

これは、自分の恋人、奥さん、自分の家族、自分の犬、と結んだ「愛の契約」なんです。
それは隣の人とはいっしょにならないんです。
それを無理やり一緒にしようとするのは民主主義の中の悪い部面でありましてね、
私はそういった一般化や民主主義の堕落した部分というのは大嫌いです。
一つ一つが違っていていいし、違うから美しくて、素晴らしくて、
そして生きていて楽しいんだと思いますよ。

あなたの直感はまったくまちがっていません。
これからも、犬との人生を楽しんでくださいね。
そして、泣くと犬がそれを見て不思議そうにする、舐めると言っておりますが
まったくその通りでありまして、この感情はサルにも象にもありますし、
私は色々な生き物に涙を舐め取ってもらいました。非常に幸せでした。
そういった幸せの時間をお互いにたくさん持ちたいものですね。

BYムツさん 畑 正憲

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小次郎さん、今回の返信は今日が最終回です。
いかがでしたでしょうか。

ミランさん一派の説については、私も疑問に思うことが
とても多かったのです。
ムツさんの話で、それがなぜ違うのか?ということが
科学的に理解できたような気がしています。
もっともっとこの問題に関しては
ムツさんに聞いてみたいですね。

「愛の契約」という言葉に心打たれました。
それは隣の人といっしょじゃなくて
いいんですよね。
個々の飼い主と犬との素晴らしい心のつながり、関係が
一番大切なのだと思います。

その中で、一緒に幸せにすごしていけるよう、
自分以外の人にも迷惑をかけないよう、
暖かく教えていく、ということが
心のこもった本当の躾、なのではないかと
思いました。
人間の子供を育てるのと同じですね。

お読みいただいた感想なども
ぜひ、ムツさんにお聞かせくださいね。

 明日美