最近、文学、音楽、どのジャンルを見るにつけ、
「好きなんだから、文句言ってほしくない。」という安易な感情論で、
客観的で冷静な批評を封じてしまっている人が増えていることが異様に気になっている。

そして、それを見ている周りも、その論議自体を「大人気ない」と評し、
さも、ものの分かったような振りをすることで、その場を取り繕おうとする。

この姿勢を続けているうちは、本当に面白いものになんか出会いっこないし、
何より、この姿勢そのものが、一つの「社会的害毒」としか言えないものになってきている。

個人が好きなものを好きでいるのは、全く結構なことである。

とはいえ、好きなものが文句を言われるのはいやだ、といって、
指摘されたものに問題があることを、
一切、何も言わせないような状況になってしまっている段階であるとすれば、既にそれは問題だ。

やっぱり、それはやけっぱちの自分本位な感情論でしかないのだから。

だいたい、盗作なんかの犯罪行為でまで、
「好きで聞いているんだからいいでしょ。いやなら聞かなきゃいい。」とか
平気で言い出すような人が増えているという段階で、
やっぱりどこかで、話と、言ってる人間の頭がおかしいとしか言いようがないのである。

盗作、っていうのは、君の「好き」「嫌い」だとは、全く関係がない。
元々、それを作った人が、泥棒に権利を奪われて、正当な報酬を受け取れないのが当然だ、と言うのなら
君は、懸命に稼いだ給料を、他人に全額奪われても、警察に文句を言う資格などないのだ。
枕を涙で濡らして、泣き寝入りでもしたらいいのだ。

最大の問題は、音楽の盗作とか、犯罪まがいの行為とかにまで、
そういった軽率な感情論や意見や、無関心な態度が野放しにされていることだ。

音楽だから、などと気軽に考えてはいけませんぜ?
「知的所有権」っていうのは、もっといろんな範囲に及んでいるんだから。

「パクリ」なんて、気楽に言っちゃいけませんぜ?

ある意味「パクリ」と、あからさまにわかるような取り入れ方をやった段階で、
完全にそれは「泥棒」の行為なのである。

受け入れられやすく、アレンジした、とかいうならば、なぜ、原典を隠すのだろうね。
それ自体を、自分の名義で発表している段階で、既に自分の才能の限界を露呈しているようなものだ。
さっさと、音楽から足を洗ってしまう方がいい。

なんだったら、プロがよく使うパクリの手法、というものを、
実例を含めて、ここで全て明かしてもいいのだが、それもまた大人気ないとして・・・

パクリ、というものは、ここまで行き着いてしまったとはねぇ・・・
逆に、ここまであからさまだと、いっそ、見事としか言いようがない。



左と右が、それぞれ、パクリと元ネタをそれぞれ並列にならべたものだが。
いやいや、まったくもって同じ曲としかいいようがない。

以前、私の友人も、ここに散々やられたという話があったので、今更という話もあるが。

まあ、どこもかしこも沈黙しているのは、おそらく2ヶ月か3ヶ月もすれば
飽きっぽい人たちは追求を諦めて、この話題が収束するだろう、とたかをくくっているのだろう。

けれど、その2ヶ月か3ヶ月の間に、どれだけのお金が動き、泥棒たちに収入として入るのだろう?

その意味が分からなければ、もう一回繰り返して言うのだが、
今後、どんなに泥棒や犯罪者たちにしてやられたとしても、
決して、警察や裁判所なんかに訴える資格なんかないんだと思う。

弱い奴の権利や身を守るための「制度」が、実質、力によって有名無実化してるのだとすれば、
弱い奴は、強い奴にやられっぱなしが当然なのだから、さんざんやられて、泣き寝入りなだけだ。

たかが一曲の曲だからなどと、話をすり替えるなかれ。
実際に、製品のデザインやアイデアまで、まるごと奪われたとかいうことなど平気であるのだ。

いまや、日本全体が、どの局面においても、そんな話があたりまえ、になりつつあろうとしているのだ。

何一つ、オリジナルを自分たちで生み出すことのできない、哀れなコピー民族が、
狭い、たった一億という市場を食い合って、不況の中に沈んでいく。
そして、誰もがそのことに何も出来ず、ただ、沈んでいくタイタニックを見つめるだけの日は近いのだ。

そして、今後、進行する更なる不況と生活不安が深刻化してくれば、
いい子ちゃんぶって、ものわかりのよい顔さえも出来なくなってしまうだろう。
自分たちが、その「悪意」にさらされる順番が巡ってくるのだから。

・・・その時、全ての化けの皮は剥がれるだけなのだが。

昨今に見られる文学や音楽の衰退は、
いち早く、その「人の考えの根幹」から導き出される、未来の姿を正直に映し出しているだけ。

「考えなんてないよ」というのも、それも「考え方の一つ」である。
いわば「考えがないふり」を、意図して繕っているに過ぎない。
あからさまなポーズだ。

だから、音楽や文学に思想なんか必要ない、と豪語している人たちの作品にも、
必ず、作った人間の考え方や思想は入り込んでしまう。

言外の言という奴だ。

「宗教を信じない」と言っている人間は、「無神教」という宗教の信者なのだ、という裏の裏。
その事が、その人間の感情や思惑を、はっきりと正確に映し出している。

ましてや、音楽を媒体に使った瞬間、そこで、嘘をつくことは、一切が不可能となってしまう。
音楽の中に感情や思想を持ち込まない、という事は、実質、不可能に等しい。

そして、その考え方が導き出す行動パターン、そこから派生する未来の可能性。
人口統計と、流行から、ある一つの未来絵図は容易に予測できる。

だから、僕は警鐘を鳴らす。

本当の意味での「犯罪」とは、一体何なのか、ということについて。
そして、これらの音楽が暗示するところの「僕らの行き着く未来の姿」について。


追記

こんなこと、20年も前からまかり通っているんだもん。
世の中が狂ってくるのも、不況がどんどん進行するのも当たり前の話だ。

盗作しか出来ない人間は、結局、また別なものを次々と盗作して世の中を渡っていくだけのこと。

ただし、その「姿勢」が、周りに撒き散らしてる「泥棒やったもん勝ち」の風潮が、
全ての人間のやる気を損ない、何もかもを台無しにしてきているのは否定できない。

それも何十年も前から、それを放置してきたのだから、全てがつまらなくなるのは当然だし、
本来、世の中に対して、きちんと何かを生み出せる人たちや、その作品が、正しく世に送り出せないのだから
世の中が活性化するわけがないのは、自明の理だ。

挙句の果てに、最初からそんなものを「ごくあたりまえ」のように聞き、
その泥棒たちの姿のありように、全てを学んでいる世代が、既に世の中にあふれている。
そして、それが「正しいこと」だと勘違いさせられている。
これは、全くもって恐ろしいことなのだ。

ある意味「泥棒」や「詐欺師」の作ったものが、公に野放しになりながらも、
その「泥棒」が、自分の作ったものの「無料ダウンロード禁止」を平気で言い立てる、この奇怪な状況。

文化なんて、もう、とっくに終わっているようなものだ。
経済力も失い、何も、世界に対して示すことのできないコピー民族の末路など、決まったに等しい。

この憂いは、更に濃く、深い。