12.24ー松山バレエ団の「くるみ割り人形」 | 村尚也ブログ 過剰なままに

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おどりの空間 主宰 村尚也が、時に熱く、時にクールに日々を綴ります。

松山バレエ団の「くるみ割り人形」では、クララと王子の出会いのシーンでどうしても涙が出てしまいます。毎回わかっていながらなのですから、すでに条件反射となってしまったようです。


少女から大人の女性へと変貌していくクララの変化を森下洋子が克明に描いていきます。呪いによって人形に閉じ込められていた王子が人形という殻から脱出するのを見て、クララ自身も少女という硬い殻を破って行く。憧れや恋の底にある人間成長の原動力ーーー


くるみが人間の大脳の形と似ていることからも、くるみを割る人形とは人間の偉大なる進化の暗喩ではないかと私には思われるのです。人々から疎まれる人形が何故くるみ割りの人形でなければならないかという作者の仕掛けが、森下さん、清水さんのこのシーンを見ると毎回啓示のように知らされて涙が溢れてきてしまうのです。


そして涙してしまうもう一ヶ所は別れのシーンではなく、その次にやってくるエピローグ。


雪の女王らにショールをもらった記憶ーーーそれは醒めてみればあまりに切ない王子との夢の時間の中でのことだったはず。が、ドロッセルマイヤーから現実としてクララにそれが手渡される。夢と現実の符合ーーあの夢ーー恋をしたという大きな変化と成長が、必ず近い将来において現実のものとなる約束の印としてのショールの存在。


これらの啓示・暗示・約束がクリスマス・イヴの夜に行われるからこそ、このバレエはある意味で日本でも持て囃される要因になったのです。

クリスマスと冬至の符合は、この時期が一年のうちで一番夜が長く、この日を境にして徐々に日照時間が増すようになることです。イエスの復活と新春の再生が重ね合わされてイメージされるからこのバレエは日本人の無意識の共感を呼ぶのです。


さらにそれを、清水哲太郎は人間の善性の復活と読んだのではないだろうか。疲弊した一年の労苦を雪が埋め浄め、そして生命が躍動し成長する春がやってくる。作品が孕んでいる、この強いメッセージを掬い上げた松山バレエ団のこの作品は、春迎えの祈りであると同時に、日本人の心によみがえった善性の宝玉にほかならないのです。