インディーズとしての矢沢永吉 | 矢沢永吉激論ブログ

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メディアに思いっきり露出してる矢沢さん見ながら
どうしてそんなにできるのかな、頑張れるのか不思議でした。


SONGSの女の子に話してるところを見てたぶん自分に向かって言ってるのかなと。
メジャーをやめてインディーズになった。

矢沢さんを叩こうとしてる連中はインディーズになって売れなくて困るのを待ってる。
やっぱりダメだった。
矢沢は終わったと。
ネタにしたくて仕方がない。


それが分かってるからこの選択は絶対間違ってなかったと。
メジャーでなくても結果を出せるんだというのをビッグネームになってからあえてやる。
インディーズだってここまでやれば東芝に所属しなくても自由に音楽活動ができる。
経済的にも大丈夫。


昔は、一回目、散々な目に遭う。二回目、落としまえをつける。三回目、余裕。・・・だった。


いまはもうそういうまだるっこしいことはやらない。
試合開始のゴングが鳴ったらいきなりスーパーブローを繰り出して一瞬で決める。


アルバムのリリース前に矢沢さんがメジャーでこういう試みをする人は
少ないだろうって言ってたけど今後は変わってくるかもしれない。
アーティストとレーベルの力関係が変わってもっとアーティストに有利になる。
矢沢さんは成りあがりの頃からそれを言っていてずっと戦ってきた。


メジャーが悪いわけじゃないけど向こうはアーティストの創作活動やリスナー以外に
株主や四半期ごとの業績を見て動いてる。
こういう成功例が出ることで音楽産業に従事する経営者のあり方にも一石を投じる。
矢沢さん一人の力でできることではないが何らかの動きが出てくる。


渋谷陽一とのインタビューでようやく日本に帰ってきたという話をしてる。

数年前のインタビューでもずっとアメリカで音楽を作ってて

それは分かるんだけどさあ、この日本の音楽業界もなんとかしてよって。


2006年のbridge 49号のインタビューで既にいまと全く同じ話をしてる。

これはyour songsの時。

文化のあり方、芸術と産業のスタンスを考え直せという問題提起をしてるんじゃないだろうか。



もうひとつ、矢沢さんが音楽やりたくなかった時期っていつなんだろう。

アー・ユー・ハッピーで気になったのはワーナー・パイオニアの時代。


ROCKIN' MY HEARTはいい線まで行ったけど

「売れなかったなあ。」

1986年に東京ナイト。

1987年に世界発売3枚目のFLASH IN JAPANを出した。


「いま振り返ってみると、あのころは、

ミュージシャンとしての矢沢が終わっていく時期だった。

矢沢が一番光っている時代から、

だんだん仙人のようになっていった時代」

「このワーナー・パイオニアの時代は、

オレにとって最低だったかもしれない」


ディレクターの言葉。

「いまのボスは、雲の上にいます。

それは違うと思います」


bridge の渋谷さんの見解は近いけど違う。

80年代後半から90年代の

「どこ行っちゃうの、矢沢さん」という時期があったと。

YOKOHAMA二十才まえ以降。

作品としてはその頃は好きだけど作り手と聴き手は違うし。


やっぱりその頃だったかなという感じがします。



矢沢永吉