ぱふゅ→む、Perfumeが上京する経緯を考えるために、広島サイドばかりを見てきました。
ここで視点を東京サイド、アミューズに移してみます。
そもそもPerfumeが所属することになったBEE-HIVEがどのような構想によるプロジェクトだったのか。
BEE-HIVEが正式にその活動を始める2003年、アミューズは設立25周年を迎え、様々なイベントを展開していました。
BEE-HIVE構想も、その流れの中にあった、と考えて不自然はないと思われます。
もちろんそのための準備は2003年になる前から始められていたわけです。
いつごろか、ということを調べるための資料としては、芸能関係の記事よりもビジネス面を取材したサイトが有効になります。
で、あるサイトにたどり着き、そこの記事を読んでいて色々なことが分かりました。
2001年から2002年。
アミューズは若年層の新人を発掘、育成するために全国4ヶ所のアーティスト育成学校と提携します。
その記事には校名までは書いていなかったのですが、おそらく
沖縄アクターズスクール
大阪キャレス
アクターズスクール広島
アクターズスタジオ札幌本部校(旧名 北海道ジュニアアクターズスタジオ)
だったはずです。
そして、このうちの三校は、なんとアミューズの働きかけによって
地方の有力放送局に事業化プランを提案して設立したもの
だったんです。
以下は記事の引用です。
若年層の発掘・育成を手がけるために全国で4ヶ所のアーティスト育成学校と提携。内3校は地方の有力TV放送局に同社が事業化プランを提案して設立したものです。放送局にすれば既存設備が利用できる新規事業としてメリットがある一方、自分の子供をそうした学校に通わせたい親としても、地元放送局は信用力も高いため安心して通わせることができるという点でメリットがあるわけです
メジャーデビューのゴッドファザー、篠木さんのインタビューにあったアミューズスクールによって育てられ、Perfumeはその一期生として云々、という言葉はそのままの意味だったことになります。
元々各地方にあった育成学校にスカウトを送り込んで、たまたま有力な生徒を見かけたから上京させる、というわけではなく、全国各地で有力な新人を育成するために学校を設立したんですね、アミューズが。
そして有望な新人が見つかった場合、これも記事を引用しますと
有望な人材が見つかった場合の提案権は全ての社員が持っています。
決して一人若しくは数人の眼力に依存しているのではなく、組織として決定していく仕組みになっています
BEE-HIVEはこの育成、スタウトシステムの流れの中で結成された、有望な人材の受け皿だった、ということになります。
有望な人材を集め、アミューズらしい香りのするアイドル、にするためさらなる育成を行い、そして
レコードに依存しないアーティスト作り
の一環として作られたのが
全国から発掘した女性グループ「BEE-HIVE」
だったようです。
現在、上記の学校の全てがアミューズと提携しているわけではないのですが、BEE-HIVE構想の始まりはアミューズ25周年記念に相応しい、非常に壮大なものだった、ということが分かります。
アミューズが、大ヒット曲もない(失礼!)ガールズユニットを中心にした集団であるBEE-HIVEに、大都市に限られたとはいえ全国規模のツアーまで敢行させたのにはこうした背景があったようです。
ここでもう一度広島サイド、Perfumeに焦点を絞って別の言い方をすると、
Perfumeは、元々アミューズが若年層の発掘、育成を手がけるために地方に設立した学校によって育てられたユニット、ということになります。
大勢いたはずの生徒の中から、なぜぱふゅ→むが、ということになると、少なくともそのきっかけは、やはり全国オーディショングランプリの大本彩乃、という少女の存在と考えるのが自然だろう、と思います。
では、なぜぱふゅ→むが大本彩乃ちゃんだけでなく、ユニットのままの上京になったのか。
これについては、広島からBEE-HIVEに参加するために上京したのが「3組」だったことが関係しているんじゃないか、と思っています。
3組?
2組じゃないのか、と思いますか?
数えてみましょう。
青木紗知歩さん
ぱふゅ→む
そして、
水野みきこさん、の3組です ▽・w・▽
追記:参考資料となる記事のURLです。
http://www.bridge-salon.jp/report_bridge/archives/2002/06/020604_4301.html
年代を追って記事を読んでみてください、面白いですよ