ぱふゅ→むが、なぜアミューズから東京に呼ばれ、Perfumeとしてインディーズながら全国デビューすることが出来たのか。
僕はこのことをずっと考え続けています。
Perfumeはたしかに素晴らしいガールズユニットです。
彼女たちと他のアイドルグループを、エレクトロポップや、ガーリーハウスなどと呼ばれる似た傾向の音楽を志すアーティストや歌手と隔てるもの。
それは、広島時代にはアクターズスクールによって、上京してからはBEE-HIVEプロジェクトによって徹底したレッスンを受けた「学歴」です。
歌、ダンス、演技など総合的なカリキュラムによって鍛えられたPerfumeは、芸能活動においてはオールマイティであり、さらに長年のライブ、イベント、ラジオ番組での経験がトークセンスに磨きをかけて、弱点の少ない、非常にタフな存在へと育ったように感じられます。
ただ、オールマイティなスポーツ選手などにも見られるように、これといった特色、ずば抜けた能力みたいなものはあまり感じられません。
今はまあ大人になって綺麗になったし、スタイルもいい、歌もうまいしダンスは売り物になるほどのレベルにあるしトークも面白い、とはいっても傑出した才能の集まる彼女たちが生きる世界の中ではトップレベルに達しているものはありません。
そのぱふゅ→む、Perfumeが芸能界という厳しい世界の中で幾多の危機的状況を乗り越え、現在ブレイクを果たしたユニット、という位置までたどり着くことが出来たのはなぜなのか。
その答えの重大なヒントのようなものが、広島時代に、そして広島から東京へやってくるまでの過程にあるような気がするんです。
まず、僕の疑問は「数」について起こりました。
Buzy、ボイスタといった既存のユニットの他には、各地のスクールから呼び集められたBEE-HIVEメンバーはほとんどが一人ずつ。
唯一の例外が、3人組のPerfumeです。
ASHに限らず、養成スクールでは、生徒たちがユニットを組んで競い合う、ことを奨励しているような節がありますので、おそらくBEE-HIVEメンバーの多くもスクール時代には何かしらユニットでの活動を経験していたんじゃないか、と思います。
でも、東京に呼ばれた時には一人ずつのピックアップ。
どのような方針があったのか、は想像するしかないのですが、複数のタレントを管理しなければならないユニットがプロジェクトの中で存在できる枠、みたいなものがあって、それはおそらく既存の2ユニット分で本来は手一杯だったんじゃないか、という気がします。
ぱふゅ→むが、広島からユニットのままで参加したことは、例外的な出来事だったんじゃないか、本来は「大本彩乃」さんと、青木紗知歩さん、一人ずつ計二人だけを呼び寄せるつもりだったんじゃないか。
これが、ぱふゅ→む上京に関する大きな謎の一つ、と僕は考えています。
あ~ちゃんと、あ~ちゃんのソウルメイトたるかしゆかの戦いは、僕たちファンが考えるはるか前から始まっていた。
「女神」と「天使」の戦いは2000年から始まります。
そして2000年には、古くからのファンの方ならご存知、インディーズ時代の公式サイトには掲載されていた、というのっちこと「大本彩乃」さんのプロフィールにおける重大な事件が起こります。
大げさな引きで毎回終わらせる。
それが黒猫堂▽・w・▽のやめられない悪い癖。