もっと単純。
現代アートは、難しく考えなくていいのです。
単純に頭をクリアにして、リラックスして観覧してください。
私が、ドラム缶の気持ちがわかったみたいに、たぶんデュシャンは、鉛管屋のショウウインドウ越しに
便器の声を聞いたのでしょう。
人の排泄物を受け止めるだけなのか?
「もしこれが、一番そぐわない場所、つまり美術館で、誇らしげにスポットライトを浴びていたとしたら、
人の目にはどう映るだろう。」
デュシャンはいたずらっぽく、人の反応を観察しようとしたのではないでしょうか。
単純に伝わる言葉をさがして、ポイントにヒットさせようとすればするほど、ややこしく伝わる。
デュシャンの「泉」は、まさにそんな感じではないのかな。
よけいなことは極限まで排除したところで、あれこれ作家の意図や願望や欲望を探られ、
深いメッセージがあると詮索され、人となりを判断しようとされる。
その滑稽さ。
たとえば、ある人に「素敵なゴールデンウィークを・・・」
という言葉をもらったとします。
素敵な・・・は、自分にとって「素敵」でなければならないことであって、
その言葉をかけてくれた人物にとっての「素敵」とはどんなことなのか、なんて、
普通考えたり探ったりしないでしょう。
素敵という言葉には何通りのものイメージがあっても、社交辞令として受け止めるはずです。
言ってくれたその人の普段の素行から、その人にとって「モラルを無視した快楽」が素敵なことだとしたら、
私に、「モラルを無視した快楽的」なゴールデンウィークを送れと言ってる。
とわざわざ推測なんてしたりしないでしょう。
デュシャンはそんな干渉も押し付けもしてやしないのに、芸術家であるという存在から勝手に、
デュシャンは我々にこんなメッセージを・・・、
と多くの人が勘違いしてきたのではないのでしょうか。
その有識者と呼ばれる人達の反応の右往左往ぶりをも、デュシャンは愉しんでいたのかもしれませんね。
Reborn 2006 サイズ ハガキ