機に生れつきたる善悪のふたつ、
報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。
宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。
宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。
ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、
往生の大益をば如来の他力にまかせて、
かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(口伝抄)
ひとりひとりの善悪の宿業は、
報土往生の得にも失にもならず、
報土往生と一切関係ないのは言うまでもないこと。
宿善の厚い人は、今生に善を好み、悪をおそれる。
過去の悪業の重い人は、今生に悪を好み、善には消極的。
そのような善悪の有り様は過去世からの行為によるのであり、
報土往生の大幸は、全く弥陀回向の他力信心一つによるのだから、
衆生の三業善悪の有り様と、報土往生の可否を関係づけるのは
間違いなのである。
覚如上人仰せの通り、
「報土往生」できるか否かは「他力の信心」一つによるのであるから、
人間の「善悪」と「報土往生」とを関係づけるのは間違いである。
ところが、
> 「定散の諸機」は「極重の悪人」よりも報土往生が遠回りになります。
これは、前回のエントリーで紹介した
「真宗界では誰も知らない」飛●氏の珍説。
飛●氏は、
定散の諸機=定散諸善ができる善人
極重の悪人=定散諸善ができない悪人
と理解した上で、
> 「定散の諸機」は「極重の悪人」よりも報土往生が遠回りになります。
と断言しているのだから、
「定散諸善ができる『善人』は、定散諸善ができない『悪人』よりも
報土往生が遠回りになります。」
更に簡潔に言えば、
「『善人』は『悪人』よりも報土往生が遠回りになります。」
これが飛●氏の主張だ。
「善悪」と「報土往生」とを関係づけるのは間違いだ
と、口では言いながら、
「善悪」と「報土往生」とを関係づけている張本人が飛●氏
という悲しい現実である。
そのように関係づける心が自力の心だと知る人はどれだけあろうか。
「他力の信心」一つで決まるのだと言いながら「他力の信心」を知らない。
哀れむべき飛●氏なのである。
のエントリーにて引用した、覚如上人の御言葉通り、
「今生で獲信できるか否か」は、
各自の「宿善」によるのだが、
「報土往生」は我々の「善悪」と無関係である。
「他力の信心」を獲得すれば、
これ一つで「報土往生」するからである。
「善根の多少、罪悪の軽重など、報土往生には一切関係無し」
と実地に知らされる。
「機に生れつきたる善悪のふたつ、
報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。」
(覚如上人)
が”その通り”と頂ける。
これが真宗正意の信心である。
それに対して、
どれぐらいの善が出来る善人か、或いは出来ない悪人か
という「機の善悪」が「報土往生」の後先に影響を及ぼす
などと、覚如上人に真っ向から違反する飛●氏は、
明らかに「他流」と判明している。
三業から完全に解放されているこの
絶対不可思議の徳海を称念する身に
皆さんにも、一日も早くなって頂きたいばかり。
まことに宿善まかせとはいいながら…
願以此功徳
平等施一切
同発菩提心
往生安楽国
南無阿弥陀仏
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