十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。
いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、
過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。
宿福なきものはこの教にあふといへども
念持せざればまたあはざるがごとし。
「欲知過去因」の文のごとく、
今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
『口伝鈔 第二章』
十方衆生、すべての人の中に、
今生で弥陀の18願を信受(信心獲得)する人と、
今生で信受(信心獲得)しない人とがある。
その訳は、仏説無量寿経の中に説かれているように、
過去の宿善が厚い人は、
今生に、善知識の教えに遇い、信心獲得する。
宿福(宿善)のない(薄い)人は、
善知識に遇って18願の教えを聞かせて頂いても、
疑って信心獲得しないので、遇って遇わないようなものである。
「過去の因を知らんと欲せば」の御文の通り、
今生の有り様(信心獲得するか否か)によって、
宿善の有無(厚薄)は明らかである。
この覚如上人の御言葉によれば、
「浄土教を信受する機」とは、
弥陀の救いを求める未信の人すべてとは言われていない。
「今生にこの教にあうてまさに信楽す。」
とある通り、「今生で獲信する人」のことである。
「信受せざる機」とは、
弥陀の救いを未だ求めるに至らない人とは言われていない。
「この教にあふといへども念持せざれば」
とある通り、弥陀の救いを求めない人は無論だが、
弥陀の救いを求めていても、「今生で獲信しない人」のことである。
「今生のありさま」とは、
弥陀の救いを求める人か、求めない人か、とは言われていない。
”今生にこの教にあうてまさに信楽す。”
”この教にあふといへども念持せざれば”
とある通り、
「今生で獲信する・獲信しない」、という有り様のことである。
このように、今生で獲信するか否かの差があるのは、
宿善の有無、厚薄によるのだと覚如上人は教えられている。
宗祖はかつて、天台法華の聖道門を信じ、
叡山で20年、懸命に後生菩提を求められた。
苦悩煩悶される宗祖はやがて弥陀に導かれ、
法然上人との邂逅を経て、
ついに浄土の教えを信受(信心獲得)せられた。
この宗祖を、覚如上人の御言葉に照らすならば、
「過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。」
の御文の通り、今生で獲信せられたのであるから、無論、
宗祖は「過去の宿善あつき」お方、
「宿福なきもの」にあらざるお方であった。
ところが飛●氏は、
「聖道門を信じている人」は
>「浄土教を信受する」ことができない「信受せざる機」、
>「宿福なきもの」です。
と断言している。
自説に酩酊して宗祖をお忘れ、言語道断と以前に指摘した通りの惨状だ。
そうなるのは、飛●氏が宿善を誤解しているからに他ならぬ。
> 「宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機」
> 「宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機」
> という意味です。
と書きながら、その意味が全く判っていないのは、
次の言葉を見ても明らかだ。
自惚れの為に自己の領解の誤りには気付かないのであろう。
> つまり宿善とは
>
> 浄土教(18願)を信受する善因縁
> 遇法の善因縁
>
> ということです。これを、
>
> 獲信の善因縁
> 往生の善因縁
>
> と勘違いしているのが親鸞会です。
飛●氏は、
「浄土教(18願)を信受する」≠「獲信」 と理解し、
「浄土教(18願)を信受する」を「信前」のことと誤解している。
正しくは、
「浄土教(18願)を信受する人」=「信前の人」
「浄土教(18願)を信受する」=「獲信」
なのだが、飛●氏にはこれが判らない。
それを踏まえて飛●氏の次の言葉を見てみよう。
> 宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。
> つまり、18願1つを勧められた
> 法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを
> 受け入れられる人は、宿善の機であり、
> 聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも
> 法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを
> 素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
> 蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、
> 18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の
> 教えられたことを受け入れられるかどうかです。
飛●氏は、
「宿 善 の機」 =「浄土教(18願)を信受する機」
=「宗祖を教え(18願)を受け入れられる人」
「無宿善の機」=「浄土教(18願)を信受せざる機」
=「宗祖の教え(18願)を素直に信じられない人」
=「宗祖の教え(18願)を受け入れられない人」
と理解している。この
「受け入れる・受け入れられない」
「素直に信じられる・素直に信じられない」
という言葉が、実にいい加減で”あやふや”である。
飛●氏は、宗祖の教え(18願)を「信受する」ということを
信前に宗祖の教えを素直に受け入れて信じることと理解しているところに
大変な誤りがあるのである。
すでに述べた通り、正しくは、
「浄土教(18願)を信受」とは「獲信」のことであり、
「浄土教(18願)を信受する人」とは
未信の真宗門徒すべてのことではなく「今生で獲信する人」のこと。
「浄土教(18願)を信受せざる人」とは
弥陀の救いを求めていない人だけではなく「今生で獲信しない人」のこと。
覚如上人の御言葉をよくよく御覧になれば、
「宿善あつき人」とは
「今生で獲信する人」と仰せられている。
「宿福なきもの」とは
「今生で獲信しない人」と言われている。
文証に明らかなことだ。
浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、
覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、
蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、
【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。
などと断言する飛●氏は、覚如上人や蓮師が全く仰っていないことを
あたかも覚如上人や蓮師の御言葉の意味であるかのように
堂々と誤解して述べているに過ぎないことは明瞭である。
果たして飛●氏が言うように、宗祖の教えを慕う未信の人は、
皆が皆「今生で信楽す」る「浄土教を信受する機」と言えるのか。
そうであってほしいのは無論だが、
あわれあわれ現実はそうではないからこそ、
宗祖の教えを慕い全国から馳せ参じられる
強信な御門徒の方々を相手にさえ
「あわれあわれ存命のうちに、
みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。
まことに宿善まかせとはいいながら、
述懐のこころ、しばらくもやむことなし」
と蓮師が朝夕念じていられた御意が判らぬのであろうか。
仏様でもあるまいに、飛●氏は、
浄土門に名を連ねる人がみな宿善の機(今生で獲信する人)
などと判断できるのか。
その割には「聖道門を信じる人は宿福なき者」などと、
今生で獲信せられた宗祖を見落とす大失態を曝しているではないか。
真実の弥陀の本願に救いとられた人は、
覚如上人や蓮師御述懐の通りに、宿善が知らされる。
諸善によって獲信するという意味などではない。
宿善によって獲信の前後が生じるということだ。
今生で獲信するか、できないかは、
ひとえにその人の宿善で決まることが知らされるのである。
されば飛●氏の
> 親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、
> 繰り返し繰り返し教えられているのですが、
> 絶対他力18願での往生をとても信じられない
> 無宿善の機(未熟の機)がいますので、
これは、言葉は正しいが、飛●氏の理解が間違っている。
「絶対他力18願での往生をとても信じられない」
とは、未信すべてなのだ。
弥陀の救いを求める人も含まれるのである。
宗祖の教えを信じていても、未信はみな、
「絶対他力18願での往生を疑っている人」だからである。
さてその未信の人が今生で獲信するか否かは宿善まかせ。
そのように正しく理解すれば、その後の飛●氏の言葉、
> そんな機に対しては、権仮方便をもって
> 18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。
これは正しくなる。
権仮方便は「不要」などではなく、
本当に獲信すれば「権仮方便あったなればこそ」と
宗祖が感謝せられている通りに、
誰もがその心に感謝溢れるであろう。
よもや、
> 親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、
> 18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならない
> と思うことを自惚れというのです。
と言いなさる飛●氏のようには、毛頭なり得ない。
飛●氏こそが、自惚れのど天井であることを知らされる。
19願、20願に謝念を表明せられる善知識方とは異質で
それらを必要だと思うのを「自惚れ」などと言いのける飛●氏が
相当自惚れているのである。
あさまし あさまし。
そんな自惚れたもの相手だからこそ、
阿弥陀様は御苦労せられていることを知らねばならぬであろう。
南無阿弥陀仏
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