●女優・のん「あまちゃん」からの4年半(前編)
2018年1月21日 11時0分

文春オンライン

 小さな襟の付いたブラウスと足首にまで
届くふわりとしたスカートを着て静かに佇むその人は、凜として背が高く、少し猫背で、黒目勝ちな瞳を持っていた。

 私は一枚のポスターを思い出し、胸を高鳴らせていた。

海中からウニを手に現れ、水しぶきとともに髪を靡かせて口を大きな半円に開けた
絣(かすり)の袢纏(はんてん)をはおった
少女のでっかい笑顔。

 それと同じ顔が、目の前にある。

私は思わず、心の中でこう呟いた。

ドラマで彼女の母親役を演じた小泉今日子さんの声に似せて。

 お帰りなさい、アキ。

 頭の中では午前8時ちょうどに鳴り響いたビッグバンドが演奏するドラマのオープニング曲が聴こえていた。

スカ調の軽快な音楽を聴けば見える。

黄色いTシャツに白いシャツとジーンズ姿で、紅いリボンの制服姿で、北の海女と書かれた鉢巻きと海女姿で、大きくジャンプするアキが跳ねては消えるあのシーンが。

 2016年12月。私の前に現れたNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』のヒロインは、
ドラマの主人公である天野アキのように
「えへへ」と小さく笑うと、こう言った。

「はじめまして。のんです」

 透き通るように肌が白く、頬は少し紅潮している。

「あっ、最近はのん社長とも呼ばれています。えっと、のん社長の社長はあだ名ではなく、本当に社長だからです」

「社長になったんですか?」

 こう尋ねた私に、肩をすぼめ首を前に突き出して、上目遣いのまま彼女は言った。

「はい、私、社長です。小さな会社を作りました。『株式会社non(ノン)』っていいます」

 そう言い終えて静かに椅子に座った彼女に私は聞いた。

「アキを演じた女優の能年玲奈さんは、もういないのですか」

 躊躇のない真っ直ぐな声が響いた。

「今の私の芸名はのん。そして、会社ではのん社長です」

 瞬きした目がきらめいていた。

 その日から、およそ一年にわたるのん取材がスタートした。

私は何度も彼女に会い、話を聞いた。

◆本名を名乗らない理由
 2013年4月から9月まで放映された
『あまちゃん』で国民的な人気を獲得した
女優・能年玲奈。

二重の大きな瞳と長くしなやかな手足が印象的な彼女が東北の海で漁をする海女を演じた宮藤官九郎脚本の人情喜劇は、

あまちゃんブームを巻き起こしただけでなく、彼女の人生を一気に旋回させた。

 若き海女の天野アキと一体化した彼女の存在感は、
共演した薬師丸ひろ子、小泉今日子、宮本信子ら大女優たちにも引けを取らなかった。

彼女が演じるアキの懸命さ、おかしみ、愛くるしさは、瞬く間に彼女を国民的女優へと押し上げていった。


菊池寛賞の授賞式にて ©文藝春秋

『あまちゃん』が終わる頃には、いくつものテレビCMに登場し、彼女の顔を見ない日はなくなった。

話題の映画『ホットロード』(2014年)
『海月姫』(2014年)にも主演し、あまちゃんとは違った役どころで新人賞をいくつも獲得した。

 そんな「能年玲奈」が、ある日「のん」と名乗ることになった。

 なぜ、「のん」になったのか。

のん誕生までに何があったのか。

2度目に会った時に改めて問うと、彼女はうふふ、と笑って首を振った。

「えーっと、本名を名乗らなければいいんだということに気が付いたからです。だから、本名で活動していた時のことも、前のお仕事の話も、しないことにしているんです」

 明るい表情とその言葉は偽りのものではなく、本心なのだろう。

 あっけらかんとそう言い放つ彼女からは、芸能界の理不尽とも思えるルールにおののき怯える様子は微塵も見受けられない。

私は、分かりましたと言って、こう続けた。

「では、取材では能年玲奈さんと過去の仕事の話は聞かないようにしますね」

 彼女は「はぁい」と柔い声で返事をし、
また大きく笑って見せた。

◆のん以前のことは話さない
 ここ数年、「能年玲奈」と「のん」について書かれた記事を読み返してみると、その経験がどれほど特異であったか分かる。


©文藝春秋

 2014年末から2015年にかけて、能年玲奈と所属事務所・レプロエンタテインメントとの間で契約問題が起こっていた。

独立を望む彼女と契約の正当性を訴える事務所側の立場とは相容れず、

能年は事務所が用意した寮から離れると、
自分で部屋を借り一人暮らしを始めた。

 そこでのんは
「信頼していてすごく仲良しの人」
を頼った。

彼女が長年演技指導を受けてきた滝沢充子さんである。

演出家であり、演技指導のトレーナーでもある滝沢さんは、10代の頃からのんを知る人だ。

 2015年4月、スポーツ新聞や週刊誌が
「能年玲奈が事務所に無断で個人事務所を設立した」
と報じた。

さらに奇妙な報道が続く。

同年4月25日の東京スポーツに能年を受け入れた滝沢さんが彼女を“洗脳”し、独立騒動を起こさせたという趣旨の記事と2人の写真が掲載されたのだ。

そうした騒動があり、映画やテレビドラマへの出演は遠のき、レギュラー出演していた
ラジオ番組やテレビCMも次々に打ち切られた。

 能年玲奈の姿は完全に消えた。

 暗礁に乗り上げたかに見えた彼女のキャリアが再び動いたのは2016年夏。

レプロとの契約が正式に終了し、能年玲奈は、突如「のん」と名乗ることを宣言したのである。

 同年7月21日号の「週刊文春」では阿川佐和子さんのインタビューを受け、

演技の師である滝沢さんから洗脳などあるはずもないと自らの言葉で語った。

さらに、翌週発売の「週刊文春」7月28日号が「のん」に改名した理由を報じた。

同誌によると、前事務所との契約で本名でもある「能年玲奈」が使えなくなったためだという。

 のんの本格始動は、同年8月に開始されたコミュニケーションアプリLINEが運営するブログだった。

「のん、ブログ始まります!」
というタイトルの下には、彼女自身が名前を手書きしたプラカードを持った写真とコメントが掲載された。

「のん、LINE仕様です。ひらがなだと2文字がちょうど良いですね」
「雨に打たれながら~~」
「雨雲に叫ぶのだ~~!」
「わん、つー。これから楽しく更新していきます。よろしくお願いします!」

 戯(おど)けたポーズの写真に添えられた
プロフィールに、過去の経歴は1行もなかった。

 女優、創作あーちすと!
 1993年7月13日生まれ。
 趣味・特技、ギター、絵を描くこと、洋服作り

 2017年春。
イタリアンレストランでランチをしながらのインタビューは、とてもリラックスしたものになった。

私が、ブログを読んでいます、というと、
のんは嬉しいです、と言って目を細める。

 そして、
「怒られると嫌なので、のん以前のことは何も話さないですが、原稿書けますか?」と、私の顔を覗き込んだ。

 私は、もちろんです、と答え、今ここに生きているのんさんにだけ話を聞きますよ、と返事をした。

頷いたのんは、はきはきと、どんな問い掛けにも楽しげに答えはじめた。

「むくむくとアイディアが浮かんできちゃうんで、スケッチブックによく絵を描いていました。

自然とキャラクターが次々に目の前に浮かんできたんです。

だから、LINEスタンプを作るというお話を頂いた時もキャラクターをすぐに描くことができたんです」

 LINEのスタンプになったイラストは個性的で楽しくカラフルで、まさに彼女の才能の片鱗だ。

「このアフロの少女の名前はワルイちゃんです。
カツラもキャラクターでこの子はジェニファ。
この三本線は三坊かなぁ。
猫はねっこ。
熊はぐりずりぃ。
あ、意外とそのまんまですね。
実は私、絵を描くのは子供の頃から大好きで得意だったんですよ」

 朗らかな会話の後、私は話題を大きく転じた。

 2016年11月に公開されたアニメーション映画『この世界の片隅に』について訊ねたのだ。

この映画で、のんは主人公・すずの声を
演じ、初めて声優を務めた。

彼女にとっての復帰作と言っていい。

 彼女は掌を膝の上に置いて姿勢を正し、
言葉を繋いでいった。

「おおげさかもしれないですが、このアニメーション映画ですずさんを演じることができて、本当に嬉しいです。

俳優として、この先出会えるか分からないと思えるほど素敵な作品だったので、声優の
仕事は初めてでしたが、やりたいと思いました」

『この世界の片隅に』は、
こうの史代さんの同名漫画を原作とする
片渕須直監督・脚本の長編アニメーション
映画だ。

昭和19年、広島から呉に18歳で嫁いだ主人公すずが、戦時下の困難の中にあっても工夫を凝らして豊かに暮らし、悲劇を乗り越えて明るく生きる姿を描いている。

 のんは言った。

「すずさんの可愛らしさを出さなければと思っていたのですが、パイロット版を見た時、(自分の中のイメージが)“美しいすずさん”に変わってしまった。

すると、監督が『美少女の声は必要ないからね』『すずさんの面白いところを大切にしてほしい』と言ってくれたのです」

 のんはこの作品に出演し、台詞を音で捉えて演技をしていくことの楽しさがわかったと話す。

「ドラマなら、自分や相手との間(ま)を使って演技をしたりできます。

でも、セリフ回しだけで表現するというやり方は、実はあまり得意ではなかったんです。

声だけで演じるには、台詞の意味に加え、音やテンポが大切なんだと、片渕監督に教えていただきました」

 作品には戦時下の広島や呉の人々の生活の詳細が描かれており、

のんはすずと彼女を取り巻く人々、その状況に心を動かされていた。


『この世界の片隅に』の資料 ©文藝春秋

「例えば、すずさんが面白いことをするシーンやすずさんと家族がご飯を食べて一喜一憂しているシーンには、

きっと世界中のどんな人でも思わず笑ってしまう可笑しさがあると思います。

そんなすずさんに共感したからこそ、戦争に対する恐怖や当時の人々が助け合って生きていたことがリアルに感じられました」

 戦争が降ってきて、その中で生きなければならなかった18歳のすず。

爆弾に吹き飛ばされ右腕を失ったすず。

のんは、まったく違う時代を生きた主人公と自分を懸命に重ね合わせた。

「周りから、ぼーっとしていると言われるところはよく似ていると思います。

私も何も考えていないと思われるタイプで、自分ではぼーっとしているって思ってないところとかも、近いですね。

あと、絵を描くのが好きなところも、すずさんと似ています」

 似てると思うだけでなく、憧れもある。

「少女の頃に見初められた周作さん(夫)の
お嫁に行けるところなんて、素敵です。

子供の頃に会った周作さんはすずさんのことを覚えていて、すずさんは覚えていないのだけれど、

運命の糸はむすばれていて、それで夫婦に
なるなんて素晴らしいです」

 けれど、第二次世界大戦下で生きる主人公の声の演技に、のんは躊躇し悩み抜いたのも事実だった。

「私、片渕監督を質問攻めにしちゃったんですよ。

監督はしつこく聞く私に嫌な顔をすることもなく何時間でも話してくださいました。

歴史のことでも監督が時代考証を尽くされていたので、聞きまくりました」

 例えば、呉が空襲を受け、海軍が放つ
高角砲の着色弾が炸裂するシーン。

すずがカラフルな爆弾の煙の淡い綺麗な色に『ここに絵の具があったら』と見とれてしまうシーンがある。

「どうして爆弾をきれいだなと思ったのか、すずさんだからそういうイメージを持ったのかな、と質問したのです。

すると監督が『本当に空が色とりどりになって、誰もが美しいと思う光景だったと文献に書かれているんだよ』と、話してくれて。

そのシーンをより現実として感じることができました。

本当にびっくりしたのは、色が付けられた爆弾は、呉にある軍艦だけに配備されていたということでした」

◆人って優しいな、好きだな
 心が伴わなければ演技はできない。

それは声優でも同じことだ。

 とりわけ、のんが悩んだのは幼なじみの
水兵、水原哲が寄港した呉にあるすずの家を訪ねてくる場面だった。

すずには夫・周作がいる。そこに哲が現れる。

周作は家の離れに泊まることになった哲に「話してこい」と言い、夜中すずを哲の部屋へ行かせる。

複雑な男女の関係。いったい3人に何が起こっているのか。のんは悩んだ。

 特別な状況下の人の心の襞を自分のものとするため、のんは諦めずに片渕監督に追いすがった。とにかく何でも質問した。

 すると、原作者のこうの史代さんからそのシーンに込めた思いを聞いていた片渕監督はすずの心模様を丁寧に話してくれた。

のんは、その複雑な心の綾を受け止めた。

「すずさんと哲さんは本当の幼なじみで、
子供の頃からの関係は姉弟のよう。

すずさんが哲さんに膝枕できるのも、その頃から知っている気安さから。

でも、同時に、夫がいるすずさんへの哲さんの態度にも腹が立っています。

さらに、すずさんは、何より夫の周作さんに怒っています。

すずさんは結婚してから、どんどん周作さんを好きになりました。

その周作さんが妻である自分に幼なじみとはいえ、夜、哲さんのところへ行けと言ったから怒っているんです。

つまり、すずさんは2人が好きだから怒りました。

ああ、人って優しいな、好きだな、とあの難しいシーンが好きになりました」

 第29回東京国際映画祭にてワールドプレミアが行われた『この世界の片隅に』は、
2016年11月12日に日本国内で封切られた。

封切りの日、公開館数はわずか63館であったが、間もなく規模は拡大する。

累計380館、累計動員数200万人、
興行収入26億円突破、と異例のヒットを記録した。

 日本でロングラン上映中の『この世界の片隅に』は海外でも上映され、

のんは2017年2月、監督とともにメキシコで舞台挨拶に立った。

映画は、
メキシコの他、アルゼンチン、チリ、香港、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランスなどでも公開された。

同作での声の演技が評価され、のんは第31回高崎映画祭ホリゾント賞、第11回声優アワード特別賞などに輝いた。

◆片渕監督の覚悟
『この世界の片隅に』の大ヒットの要因の
一つは、すずを演じたのんの魅力に他ならない。

そう言い切って憚らないのは
片渕須直監督自身だ。


片渕監督 ©文藝春秋

 片渕監督は、長年日本アニメーション界の巨匠・宮崎駿さんのもとで制作に携わり
『魔女の宅急便』(1989年)では演出補佐を担当、

2009年11月に公開された自身の監督作品『マイマイ新子と千年の魔法』では
複数の海外の映画祭で最優秀長編アニメーション賞を受賞している。南阿佐ヶ谷の制作スタジオに片渕監督を訪ねた。

 大ヒットの感慨を聞くと、片渕監督は肩で大きく息をしながらこう語った。

「このアニメーションを作ろうと準備をはじめたのは2010年ですが、

その3年後、主役のすずさんはこの子しかいない、と思う女優さんが現れたのです。

それは『あまちゃん』で主演していた能年玲奈さんだったのです」

 運命的な出会いだった。

 片渕監督が明かす。

「私の妻(アニメーター・浦谷千恵さん)が
通っているダイビングスクールが武蔵小金井にあるのですが、

そのプールで、『あまちゃん』で海女を演じる女優さんたちが素潜りの講習を受け、トレーニングをしていたのです」

 あまちゃんの女優たちが練習するときにはプールはクローズされ、

能年や他の女優たちに直接会うことはなかったが、

片渕監督の妻が習うインストラクターもあまちゃんチームを担当しており、トレーニングの様子を伝え聞くことがあったという。


©文藝春秋

「朝ドラの主役が海女で、その女優さんたちが私の妻の通うプールで練習して、三陸の海で潜りウニを捕っている。

その親近感も手伝って、あまちゃんを食い入るように見ることになります。

何より主役のアキが可愛くて、私たち夫婦の中では準備を進めている映画の主役声優には、アキを迎えるんだと話し合い、
それがひとつの希望になっていきました」

 長編アニメーション映画制作のための資金繰りは容易ではない。

片渕監督は、作画・演出のための資料集めに奔走しながら、
プロデューサーである真木太郎さんからの
資金調達の報を待つしかなかった。

 真木プロデューサーは制作費をクラウドファンディングで集めることを思い立つ。

 2015年3月に開始された
「片渕須直監督による『この世界の片隅に』のアニメ映画化を応援」クラウドファンディングでは4000万円もの資金が集まり、

アニメーション制作がスタートできることになった。

 ところが。片渕監督は、ここまで来て衝撃の事実に直面することになる。

主役のすずの声を頼もうと思った能年玲奈の姿が、どこにもなかったのである。

 片渕監督が当時をふり返る。

「あの頃、私が主役のすずを演じて欲しいと願った能年さんは、
連絡が取れない状況にありました。

私たちは能年さんの状況を報道でしか知らないし、この先どうなって行くかも分からない。

映画のスタッフの多くは、

事務所と揉めている女優を主役に迎えれば、

映画すら危うくなる、と言って反対する者がほとんどでした」

 それでも、諦めきれなかった片渕監督は、能年の連絡先を見つけ出し、
すずを演じてくれないかとオファーした。

片渕監督の覚悟は決まっていた。

「最初に連絡したのは2016年の2月頃。

けれど、受けるという返事はもらえず、じりじりとした時間を過ごしました。

4月から6月までには何十人もの声優さんを
オーディションするんです。

けれど、その中にすずはいなかった。

能年さんでなければ駄目でした」

 制作スタッフからは作品を案じるがため、

能年の抜擢には反対の声があがっていた。

 片渕監督の怒りは頂点に達した。

そして、スタッフをこう一喝した。

「どこまで一人の若い女優をいじめれば気が済むんだ!

 才能ある女優をいったいいつまで蔑(ないがし)ろにして放っておくつもりなんだ!」

 のんの声で映画を完成させたい。

すずを演じられるのは、
この世界でたった一人だけだ。

片渕監督のその覚悟は、制作チームの隅々にまで伝わった。

そして、2016年7月、前事務所との契約が
切れて能年玲奈からのんとなった彼女に

『この世界の片隅に』のオーディションを受けに来てほしいと声がかかった。


©文藝春秋

 他の声優たちのすべての声が入ったアニメーションを見ながら、のんは監督と語らい、教えを請いながらアフレコを務めていった。

「監督を質問攻めにしましたが、監督は一度も嫌な顔をせず、私の話に付き合ってくれました。それも穏やかに。何度でも――」

 私がのんのその言葉を告げると、片渕監督は表情をゆるめた。

「私は大学で映画についての講義をしています。

学生が分かるまで何度でも話し、伝えます。

のんさんとのやり取りは、そんな雰囲気でもありました。

けれど、すずになりきって彼女が声を発するとき、私は唯一無二の才能との仕事に震えていましたよ」

 後日、私が片渕監督に会って話したと伝えると、のんは、すずとなった時間を忘れない、と言った。

「私の中にいるすずさんを、片渕監督夫妻が見つけてくれました。

呉にお嫁に行ったすずさんになった2016年の夏の日を、私は生涯忘れないと思います」

(後編に続く)

(小松 成美)