●『この世界の片隅に』に「反戦じゃないからいい」の評価はおかしい!
“戦争“をめぐる価値観の転倒が

リテラ /
2016年11月24日 11時20分

 現在公開中のアニメーション映画『この世界の片隅に』が

大ヒットを記録している。

上映館は68館と小規模であるのにもかかわらず、

前週末も観客動員数では
10位にランクイン。

本サイトでも取り上げたが、

主演の能年玲奈あらためのんの独立騒動問題が影響し

テレビでの宣伝が極端に少ないなか、

逆に口コミで評判を呼んでいるようだ。

 それを象徴するかのように、ネット上では同作を絶賛するコメントが多々まとめられているが、

そんななかでとくに目につくのは、

「反戦・平和のようなメッセージ性がないところがいい」

という評価だ。

〈この世界の片隅に 面白かったわ。はだしのゲンや火垂るの墓のような偏狭な左傾反戦平和映画じゃない。〉

〈『この世界の片隅に』は、教科書のお説教みたいな反戦イデオロギー臭さから距離を取ることにかんっぺきに成功している。〉

〈日本が悪い!という思想やメッセージのおしつけがない〉

〈過去の反戦に囚われた作品では伝わらなかったことも、この作品からは伝わってくる〉

〈朝日新聞的な左巻き教科書のお説教みたいな反戦イデオロギー臭さが無いとの評価が多数〉


 たしかに『この世界の片隅に』は、

戦中であっても生活を少しでも豊かにしようと

奮闘する主人公すずの姿が活き活きと描かれ、

家族との団欒は笑いに溢れている。

そして、戦渦に巻き込まれ、

戦争によって大切なものを奪われても、

すずは反戦や平和を声高に叫んだりはしない。

そういう意味では、中沢啓治の『はだしのゲン』とは大きく異なるだろう。


 だが、

この作品を「反戦・平和のようなメッセージ性がないところがいい」と

評価するのは、


とんだ勘違いだ。


風景画を描いているだけで

憲兵からスパイ扱いを受けたり、

道端の雑草をおかずにするほどの

貧しい暮らしを強いられる様子は、

笑いのオチがあるから救いがあるだけで、

戦争の肯定になどには

けっしてならない。

さらには

身近な命が危険に晒され、

昼夜を問わない空襲によって

心身共に疲れ果てていくさま、

そして原爆投下後の広島の風景から

もたらされるものは、

その時代を生き延びた人びとの

苦労を偲ぶ気持ちと、

「戦争はまっぴらだ」

という

シンプルな

感想のはずだ。

 しかも閉口してしまうのは、

「反戦・平和じゃないところがいい」

という意見

どころではない、

もっと

とんでもない解釈まで飛び出していることだ。

 それは、玉音放送を聴いて家の外に飛び出したすずが

見下ろす町の風景のなかに、

一瞬、大韓民国の国旗、すなわち太極旗が掲げられるワンシーンについてだ。

〈太極旗が出てきてる一コマで朝鮮進駐軍の暴挙を表してるし、単純な反戦平和主義漫画ではない〉

〈玉音直後に太極旗が上がってたのはそういう愚連隊の乱暴行為が始まる合図かなと思った〉

「朝鮮進駐軍って何?」という人もいるかと思うが、

これは在特会や『マンガ 嫌韓流』の山野車輪などの

ネット右翼が広めた

完全なデマであり、

彼らは当時の在日コリアンたちが

終戦後に朝鮮進駐軍なる組織をつくり

強姦や殺人などの犯罪を次々に犯したと主張しているが、

根拠など

まったくない

シロモノだ。

そうした情報を

鵜呑みにしている人たちが、

今回、作中で

掲げられる太極旗を

暴力のはじまりだと

勝手に解釈し、

それを「たんなる反戦平和じゃない理由」に

挙げているのである。

 もちろん、原作者の

こうの史代氏にしても

映画の片渕須直監督にしても、

徹底的に時代考証を行って作品化しており、

「朝鮮進駐軍」なる

トンデモ陰謀論を

採用しているわけがない。

 むしろ、

物語の舞台が

軍港だった呉であり、

そこでは大勢の朝鮮人たちが

働かされていた

史実を踏まえれば、

作中の太極旗に込められているのは、

この町で日本人と同じく在日コリアンたちが

戦火に巻き込まれながら

暮らしていたという事実であり、

戦争によって

大切なものを

奪われた存在=戦争被害者としての

主人公が、

そのじつ大切なものを

奪う側の存在でもあったことを

知る場面だったのではないか。


 現に原作では、

この場面で主人公すずは

「暴力で従えとったいう事か」

「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」

「それがこの国の正体かね」

と述べている。

この台詞が

映画ではカットされているため

太極旗の意味が

伝わりにくくなっているが、

ここで描かれているのは

"戦争という行為に

一方的な正義など成立しない"

ということだろう。

 じつは、

原作のこうの氏は、

『夕凪の街 桜の国』が

高い評価を受けた際に、

一部で

"日本人の不幸しか描かれていない"

という批判を受けていた。

作品では

原爆スラムに暮らす女性が

原爆症を発症し死に至るが、

たとえば

広島大学の川口隆行准教授は、

その地域に

たしかに存在した

在日コリアンが

作中では消されていることの

意味をこう指摘した。

〈現実の広島市の都市空間から消滅した

「原爆スラム」を

マンガという媒体によって

紙上に甦らせようとしながら、

そうした忘却に

抗うそぶりのうちに、

コード化されたともいえる

「原爆スラム」=朝鮮人というイメージの連結を

密やかに切断している〉


〈『夕凪の街 桜の国』が、被爆六十年を目前に

「日常の視点」を備えた「穏やかな」原爆の

記憶を表象化しえたとすれば、

その代償に支払ったものとは--

いささか表現はきついかもしれないが--

被爆都市の記憶の横領といった事態であった。

イメージにおける排除空間の排他的占有といってもよい〉

(『原爆文学という問題領域』創言社)

 経緯を考えれば、

こうの氏が

『この世界の片隅に』で

太極旗を描いたのは、

こうした批判に対する

「回答」だったと考えるほうが自然だろう。

 それを、自分たちと同じ

ヘイト思想に

引きずり下ろそうとするのだから、

度し難い。

だいたい、

ネトウヨたちは

一方であの『永遠の0』を「反戦映画」だと言い張っていたのに、

『この世界の片隅に』を「反戦映画ではない」として

朝鮮を批判しているというのは

どういう理屈なのだろう。

 だが、今回、

『この世界の片隅に』をめぐって

いちばん愕然とさせられたのは、

この映画に「反戦じゃない」という評価が

与えられたことではない。

「反戦イデオロギーが

ないから

良い作品」

という意見が

まるで当たり前のように

語られていることだ。

 戦争に反対することがなぜ

「イデオロギー」になってしまうのか、

戦争に反対

していないことが

なぜプライオリティをもってしまうのか。

まったく

理解に

苦しむが、

しかし、

戦争のほんとうの

残酷さや

自分たちの

加害性から

目をそらしたがっている

人たちにとって、

この倒錯状況こそが

常識になっているらしい。

 そして、

『この世界の片隅に』は

そういう人たちにとって、

格好の

逃げ場所に

なってしまったということだろう。

彼らは、

戦時下の人たちの

日常の暮らしを

丹念に描いた

この映画の、

その暮らしの

描写だけをクローズアップし、

「戦時下でもふつうに暮らす人たち」という

物語に

読み替えて、

消費しようとしている。

 だが、それでも、

『この世界の片隅に』

のような映画が登場したことは、

大きな意味があると思う。

この映画はたしかに、

戦時下の日常の暮らしを描くことで、

戦争の

本質から

目をそらし

たがっている人たちを

惹きつけているが、

しかし、

同時に戦争が

日常を

どのように

変えてしまうのか、

そのことに

気付かせる

力をもっているからだ。

「反戦じゃないからいい」と

うそぶいている

人たちにも、

この映画は、

確実に

戦争への

恐怖を

刻み込んでいるだろう。

(酒井まど)