若手建築家のアジェンダ ダイジェスト版
もはや3週間前のことですが。。。
前稿の終わりに、つづきを書く的なことを書いてしまったのでアップしておきます。
9月19日(夜)
カフェポンテでのシンポジウム『若手建築家のアジェンダ』が行われ、コメンテーターとして参加してきました。
といっても殆どコメントしてませんが。
発表者は5名。
藤村龍至:
建築のあり方が問われないままに増殖する都市、への抵抗(※彼は「乗り越え」と言っています)手段として、「批判的工学主義」を提唱。
その上で、今回は、
・デザインと社会の関係
・「その場所に建てること」の固有性をどう捉えるか
・デザインとは何か
について議論を、と提案。(残念ながら、あまりその流れにはなりませんでしたが)
小川文象:
「破壊構築」という過激なタイトルで講演。
デザインを一本の樹に例え、コンセプト(樹の下側)とイメージ(樹の上側)を真っ二つに切り分けた絵を提示し、自らの設計哲学を明示。
SDレビュー入選作や広島市の公共プロジェクトコンペ最優秀作における破壊+再構築を紹介。
『形式』に対し、「その先にあるものを信じていない」と言い切る度胸に感心。この芯の強さは凄い。
石川誠:
一転し、「楽しい関係」という、和み系のタイトル。
まだ独立前の彼は、相談を受けている、という高知のプロジェクトをスケッチのみで紹介。
「しゅうまい」での経験談を交え、『室名』の持つ『ふるまい』の固定概念を、恒星との惑星の関係にとらえ、恒星の重力をぼやかしたい、とのこと。
画力という言葉があるとすれば、一級品。中山英之クラス。それだけ魅力的なスケッチ。
もちろん、中山さんの場合は、博学・薀蓄の深さも桁ハズレなわけだけれども。
石川さんの場合のプラスαは何か。人柄は文句なし。後は・・・。非常に楽しみな一人。
土井一秀:
「風景の中から空間を発掘する」
SDレビュー入選作でもある『AUBERGE H』について
「できるだけ少ないものを足すことで、地形を建築空間化する」
という魅力的な言葉を発する。
最新作『棚田の家』もまた、風景と一体化した美しい建築。
美しいものをより美しくする、そういう実力派の印象。
谷尻誠:
「はじめて考えるときのように」(野矢茂樹)を紹介し、自身の設計スタイルも同じであると解説。
ブランコや折り紙、竪穴式住居、など、日常や身の廻りのあらゆる事柄から建築のヒントを得、はじめて考えるときのように、既成概念に縛られること無く、それらをスムーズに建築に結びつける。『住宅』という用途が先にあるのではなく、建築に人が住むようになれば、それが『住宅』、とわかりやすく説明。
その結果、極めて個性的で魅力的な建築作品をたくさん世に送り出していることは既に皆さんご承知の通り。
以上が5人のプレゼン概略。もちろん多少なり僕の主観混じりではあるけれど。
後の議論の流れは、当人や聴講者のブログで確認いただければわかりますが、
議論の中心は藤村vs土井。
劣悪な都市環境の負の部分までを、冷静に制約条件と読み替え、あくまでも問題を解くように設計することは可能という立場をとる藤村さんだが、そのような都市建築の設計を依頼された場合、土井さんはどうするのか。
土井さんの答えは、
「劣悪といわれる環境においても、プラスの要素は必ずあり、それを徹底的に拾いだし、活かす。」
というもの。このあたりの議論が、一番盛り上がった部分でしょうか。
さて、今回のシンポジウムを見て、藤村さんVS広島の4人、という印象を持った方がいらっしゃったかもしれませんが、最終的な、僕の印象というかカテゴライズは
「藤村、小川、石川、谷尻」と「土井」という分類。(VSではありません。)
「既成のモノ・こと・概念・思考法」に対し、懐疑的(藤村さんはそれゆえに批判的に接する)あるいは不要だとする態度を比較的前に出す4人。
一方で、あまりそういうことを主張したりはせずに、どちらかといえば「あるがままを受け入れてみる」という態度で臨む土井さん。
批判的工学主義は、業界の一部で常識とされているものに対しての懐疑や否定を含んでいるが、それは、小川さんの形式を信用していないことに通じるものであるし、石川さんの言葉としての室名が規定する振る舞いとの関係を乗り越えようとする態度とも共通している。谷尻さんも、既成の設計手順は眼中になさそう。
一方、土井さんも既成のものを100%引用することはないはずで新しいものを作ってはいくのだけれど、4人のようにそのあたりを出発点にはしていない。
別に両者がVSの関係である必要はない。
実は5人とも、両方の性質を持っている。どっち系の意識がより鮮明か、あるいは、それをわざわざ言うかどうかの問題なだけなんじゃないかと僕は思う。
藤村さんだって、外部環境に対して負の条件も含め徹底的に受け入れるという側面を持つわけですしね。
小川さんは9対1くらいに前傾している節があるけれど、あとの3人は7対3から6対4の間くらいかも。
土井さんは、3対7くらいじゃないのかな。(あくまでも僕の個人的印象。)
で、一応コメンテーターなので、最後にちらっとそのあたりのことについて、自分はどうなのか、ということを記すことで、当日十分に果たせなかったコメンテーター役の責任逃れをしておくことにしますが、
既成概念や常識、形式、伝統といった類のものを、疑ってみたりあるいは破壊してしまおうと考える行為は、それ自体は人の自由だとは思うのだけれど、とりあえず僕の場合は、そういうものは、まず徹底的に分析してみたいと思うタイプでして、その分析というのは、そもそもどうしてそういうものが発生したのかという起源を知りたがる、ということで、そのためには、歴史を勉強してみることだったり、モノによっては物理法則を学習することだったり、まぁ、色々あるわけです。そうやって色々なことを知ることができると、それはそれで好奇心が満たされ、うれしかったりもします。
で、それらの常識や形式の中には、僕のようなちっぽけな人間ではどうしようもできないくらいに完璧なこともあったり、もちろんその逆もあったりで、自分の力で変えてみることができそうなことにはとことんチャレンジしてみるし、そうでないもの(例えば、自然の摂理に従っているような事柄)については、詳しく知ることでよりいっそうの畏敬の念を持つこともできたりもして、とにかく知るということは色んな意味で嬉しかったりもする。だから、まずは、受け入れる、という態度をとることが多い。
そういう意味で、僕は、どちらかというと土井さん的だと思う。
だけれども、谷尻さんのように、かなり原理的に物事を見ている節もあって、構造で言えば、「柱」って言葉にはあまり縛られていない。鉛直力支持材という意識の方が強い。極端な話、力が釣り合えていればそれが真直ぐである必要はどこにもない、とそういう風に思っている。ので、谷尻さんの言っていることもそうだし、石川さんの室名という言葉が規定する人間の振る舞い云々という話しには素直に共感できた。
最も僕からは遠いかな、と思った小川さんに対しては、
「実際に破壊してみたとして、その後じっくり考えて再構築したときの結果が元と同じものということはありえるのか?」
という質問をぶつけてみたのだけれど、それは、さっきも少し書いたけれど、然るべき存在理由をもった常識や形式というものは存在していると僕は思っている節があるからで、小川さんはその問いに対して「ある」と答えてくれたから、この人は常識ある人だ、と思えたし、さらに「でも、出来る限りそうならないように努力したいと思っている」とも答えてくれたから、この人かっこいいな、と思えたし、一気に近くに思えるようになった。
なので聴講者の方の中には、議論の対立軸みたいなものを感じつつも結論の見えない消化不良なイベントだったな、という思いをもつ人もいたかもしれないけれど、僕からすれば、5人全員に対して共有できるものがあるしそれぞれにその先の可能性を感じることができたので、個人的にはものすごく気持ちのよい非常に丸くおさまったシンポジウムだったわけです。
京都に戻ってきてからもスタッフに対しては言っているんですけれど、
「広島はええぞ。東ばっかりやのうて、西も向いとかんとあかんかもなぁ。」
と、ちょっとハイな気分になっております。
広島へは、東京からよりも京都からの方が圧倒的に近い、という至極単純な事実は、結構、意味のあることかもしれません。