人としての軸や柱がない、そんな人たちが大半になったら、社会は一体どんなものになるのか。

 

その姿がすでに見え始めてきた。

 

日本ではこれまでなかったことだ。

 

 

信仰や道徳、倫理、それだけではやく、もっと簡単なところでは、人の教えのようなもの、教訓、人生観、人生訓、そうしたものたちが、社会や共同体から失われてきている。

 

 

それらが失われた中で育つ子たちは、一体何を根拠に、何を頼りに生きていくのか。

 

その場の感情やその時々の気分、即時的な何かだけで、生きるしか、術は無くなっていく。

 

 

そのような人たちが大半になったとき、果たして人はどう生きるのか。

 

どのように生きることになるのか。

 

 

有史以来、僕らはそうした人の姿をまだ目にしたことがない。

 

 

僕ら日本人は、無宗教で信仰のない民族のように思われがちだが、そうではない。

 

仏教や神道、自然崇拝といった信仰は、日常生活の中に実に自然に織り込まれた、そんな共同体の中で生きている。

他の国の人たちから見ると、この姿はさぞ不可思議で奇妙に見えるだろう。

週末、教会に足を運ぶわけでもなく、聖書を手元に置いているわけでもない。

 

しかし、僕らはそれらを、日常生活の中のほんの些細な生活習慣のようなものの中に、静かに織り込んでいる。それも大袈裟でなく、それとなく、何気なく。

 

同様に、教えのようなもの、良き行いとはこんなものだよ、というような小さな智慧を身近なところに、生活レベルで持ち続けてきた。

 

ここには先述しなかった、儒学(儒教)や石門心学といった、(信仰というよりも)教えや教訓のようなものが含まれるだろう。

 

 

翻って。

 

 

これらが失われた社会、共同体を、どうやら我々は生きていくことになる。

 

近年、社会の底が抜けたと言われ始めた頃から考えれば、もうかなりそれが進んできてしまっている。

 

 

見たことのない社会を生きる。

 

見たことのないヒトを目にすることになる。

 

 

軸や柱を持たない、

いわば、信仰や教えを持たないヒト。

 

どうやって生きていくのだろうか。

生きていけるのだろうか。

 

 

その姿はどんなものになるのだろうか。

 

想像もつかない。

 

 

その場限りの、即時的な反応だけで、言葉を発し、行動する人たち。

 

 

そのヒトの人生が豊かなのか、幸せなのか、それすらも。

 

 

 

(おわり)

 

 

拙著

 

 

 

 

 

本質的な学びの場をここで。

人として何が大切で何を大事にすべきか。指示命令ではない場所でちゃんとそのことに向き合って学び続けてほしいと思っています。混沌とした時代に、大切なものをここで。