子どもたちは今「考える力を失って」いると言われています。これは近年、しばしばメディアなどで用いられる言い回しのひとつです。

あなたは「なんとなく」こう思うかもしれません。
「学力も下がっていると言われているしなあ。考える力も衰えているんだろうなあ。結構ヤバいなあ」と。
よっぽど専門的な領域で教育もしくはその現場に携わっていない一般の大人のみなさまからすれば、「なんとなく」「ぼんやりした」情報であり、子どもたちの流れ、という感じではないでしょうか。子を持つ親という立場であったとしても、事情が把握できるのは、我が子とその友達、程度ですから、「なんとなく」でしかないのは当然のことでしょう。

リアルの現場にいると、この感覚は一変します。
「考える力を失ってきているんですよね?」に対する答えは、「激しい危機感」を伴った「はい、その通りです」でしかありません。

「なんとなく」使い回され、多く世に溢れているこの言葉は、教育の現場では喫緊の問題です。考える力の消失は、人の知性を奪うというだけではなく、その人の生活を奪いかつその人の自由をも奪いかねません。


さて、話は変わって、最近はコンビニでも多くの書籍が販売されていますね。マンガや雑誌以外の、いわゆる売れ筋の本が店頭に多く並ぶようになりました。本好きな僕のような人間にとってみればうれしいことではあるのですが、果たしてここで並んでいる書籍に手が伸びるかというと、結構「?」だったりするんですね。

よくあるのは、子育てだとかビジネスだとかいった類いの「ノウハウ本」です。特にコンビニエンスストアというところは、売れ筋の商品を扱うことに特化したお店です。10年も書店の本棚に並んでいるような書籍ではなく、昨日発売されて来月には姿を消すような、いわゆる「流行っている本」を扱う傾向が強いようです。あわせて、「一目をひきやすい本」という感覚も受けます。そしてその代表選手が、「ノウハウ」本と呼ばれる単調なスキル本です。「すぐにでも役立つスキル」と「わかりやすさ」、「(時間と金額の)手軽さ」がノウハウ本が売れる理由だろうと思います。「図解でわかる~」といったタイトルの大型本はその典型かと思います。





そうしたノウハウ本の「わかりやすさ」や「手軽さ」は、上手に使えば効果的にはたらくでしょう。
けれども、そのような本が多く売れることは、「そのような本しか読めない大人」が急速に増えてきたことの証拠でもあると思うのです。
読めないから、読めない人に合わす。確かに正論なのですが、知識や教養の世界では、必ずしもそれが万人にとってプラスになるわけでもありません。
もちろん、子どもたちの手に取る本が、単に「わかりやすい」だとか「簡単、易しい」ものばかりになれば、人間世界の知性は危機に瀕するといってもいい。ただ、ここで言わんとするのは、子どもたちの本ではなく、大人の本も子ども化しつつあるということに対する危惧なのです。
わかりやすく簡単すぎる本は、読者を物事の本質に深く踏み込ませるものではなく、あらゆる現象を「表層的」に見せるものでしかありません。これでは思考力は問えません。何も考えることなく、何も疑うことなく、ああそうか、それで終わりです。
何よりこの種の本は見事なほどに「行間」がないのです。人に思考する瞬間を与えない。時間を与えない。書き手の思考の隙間と秘められた意図を知る機会を与えない。あくまでも、表向きの何かをそのまま伝えて終わり、なのです。


今のノウハウ本それ自体に「悪」を押しつけるつもりはありません。
問題は、そのような本しか読めない大人が増え、さらにその大人が子どもを育てていくのだということです。

テレビなどは顕著ですが、今やすべてのものに「字幕」がつく。テレビをほとんどみない僕がたまたま先日、観て驚いたことがあります。テレビで放映される映画に、なんと番組途中で「解説」がつくではないですか。いや、そりゃあ、わかりやすいですよ、途中で見始めた人にも優しいですよ・・・「でもね」なんです。あらゆることが「消費者」にあわせて行われる。ビジネスの基本行動はすべて消費者ありき。それがすべての場面で「簡単でわかりやすく」作用する。何でもかんでも消費者本意で「簡単で手軽でわかりやすい」に向かってしまう。伝える側が消費者が満足してくれさえすれば、伝わる内容が表層的でも、一義的でもかまわない。考える隙も、思考する時間も、別の解釈の仕方も許さない。これは危ないな、と思うんです。消費行動に究極の価値がおかれてしまった現代だからこそ、今一度大人の僕らは何を世に伝え子に伝えていくのかはじっくり吟味する必要があるんじゃないかと思います。



立ち読みして気になったので書籍を購入してみました。
タイトルは『図解 9割がバイトでも最高のスタッフが育つディズニーの教え方』(福島文二郎/中経出版)です。(こうして紹介しますが、くれぐれもこの本が悪いというわけではありません。このような本が売れ、こうした本のみが売れていく社会のあり方に疑問を呈するということなので。)
ノウハウ本の特徴は、具体的というところです。誰にでもわかりやすいというのは、抽象度の低いものである必要があります。だから多くのことが必ず具体的に掛かれています。
叱ることについてページがあります。シンプルに図示されていますので紹介してみます。
まずひとつの図は、「後輩が失敗する」→×(×印・ダメということ)→「後になってメール」という流れ。
そしてもうひとつは、「後輩を叱る」→「その場(現場)で叱る」→「叱る前にほめる/叱った後はフォロー」→「ミスの軽減」→◎(二重丸・良いということ)という流れが描かれています。
すべて見事なほどに具体的です。ここまで具体的なのかと言うほどに。ここには、「人の心情の機微をくみ取る難しさ」も「他者との信頼関係の構築の難しさ」も「毎回違うであろうその場の状況」も何一つ考慮されていません。確かに、一つの手法を知るには有効ですが、これしか読めない人がここで終結してしまって学べるものは実は大変少ないはずなのです。

「そんなことはない、それ以外にだって本は読むし、実体験も含めてもっと多くを学ぶだろう」と仰る方も多いでしょう。ですが、この先を担う若者たちが、果たしてそのようなプロセスや思考を踏めるかどうかはどう考えても怪しいのです。それは僕が教育の現場で子どもたちのリアルに触れる中で感じていることです。
この先の未来、他人の心の機微を敏感に感じ、共同体の一員として一体感を感じ、文章に至っては行間を読み、人と人のコミュニケーションの中で生きていける、というような人間像は描けなくなるのではないかと危惧してます。今の彼ら(子どもたち)からみれば、そのような人間像はまるで異星人のようであるかもしれないのです。


なんとなく手にしたノウハウ本が見せる未来。
行間を感じることのできない本があふれていることなど、わずかなことかもしれませんが、わずかばかり気が重くなるような感覚におそわれるのです。