楠木正成シリーズの続きです。


1、なぜ、今、楠木正成なのか?

2、楠木正成数百騎で数万に対抗する ~赤坂城の戦い~

3、諸葛孔明の戦法と楠木正成



時代は鎌倉時代末期。

元寇(モンゴル軍襲来)から鎌倉幕府は急速に力を失っていってました。


その機に乗じて、幕府を倒して天皇親政の世の中を作ろうと決心します。

しかし、計画が事前に漏れてしまい、二度失敗。


その時、後醍醐天皇の引き立てによって

歴史の表舞台に現れたのが楠木正成でした。


ポイントは「楠木正成は武士では無かった」ということ。

「悪党」といわれる「ゴロツキ連中」をまとめ上げたリーダーでした。

攻めてくる幕府軍を奇想天外な戦略で次々に打ち破っていきます。


決定的に幕府軍に打撃を与えたのが

「千早城の戦い」でした。


楠木正成は千早城に1000人で立て籠もります。

そんなに大きな城ではありません。

周囲4キロにも満たない山城です。


「ここで正成を叩かねば、どうなるかわからない」

と考えた幕府軍はなんと200万人の大群を送ります。


兵力差2000倍!


しかし、ここでも正成は見事に応戦していきます。

城の中から攻めてくる軍に、石を投げ、湯を投げ、矢を放ち…

やはり城は落ちません。


幕府軍は赤坂城の時と同様に兵糧攻めに切り替えます。

しかし、ここは正成の読み通り。

はじめから、食料も水源も完全に確保していたのです。


そして、ある時、正成は藁人形に甲冑をまとわせ、弓と盾を持たせて夜のうちに城の外に並べます。その後ろに兵を潜ませると、夜明けとともに、大声をあげます。


それを見て、慌てて攻めてきた幕府軍。


もちろん、これは正成の作戦でした。

正成軍は“ポイント”まで幕府軍をおびき寄せて、巨石を投下。

完全にハメられた幕府軍は、一度で一千人以上の被害が出たとか。


結局、幕府軍は千早城を落とせなかったのです。


この戦いが歴史の流れを大きく変えることになります。


幕府は軍事政権です。

その中核を担う精鋭部隊が、地方のゴロツキ寄せ集めのゲリラ部隊を、しかも「1対100」の圧倒的な兵力差がありながら、殲滅できなかったのです。


これで、幕府の権威は地に落ちました。

「幕府、たいしたことないじゃん」というムードが広がります。


正成が幕府軍相手に奮闘している間に、

足利尊氏、新田義貞、赤松則村、菊池武時といった地方の有力な武士たちが挙兵。


鎌倉幕府は滅亡にすすんでいったのです。


いったん、滅亡に向かいだすと、滅びるのはあっという間でした。

およそ一か月の間に、関東から九州までのすべての幕府の拠点は潰されてしまったのです。

150年近く続いた鎌倉時代は滅びました。


その翌年です。


「我が時代来たり」とばかりに

後醍醐天皇は元号を「建武」と改めて、

京都の都で「建武の新政」を始めました。


そのもとに集まったのは、

楠木正成、新田義貞、楠木正成…


非常に優秀な人材が揃っています。


理想的な政治が行われるはずでした。


しかし、本当の問題はここからだったのです…。



 【 今回のポイント 】

 流れが変わるときは一瞬。

 いったん、逆回転の流れが始まりだすと、急速に動き出す。



  このことは、これからの時代でもいえます。

  経済の仕組みが崩壊する時は一瞬だと思います。


  人生の流れも同じでしょう。

  流れ(現実)が変わりだすと、一気に動くのです。


  ただ、流れが変わるまでが大変なのです。

  楠木正成もそうであったように悪戦苦闘する時期があり、

  「ゲリラ戦」でしのがねばならない時があるのです。


  初めからキレイに勝てるわけはないのです。





◆5月21日(土)
湊川神社参拝セミナー
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◆5月22日(日)
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◆5月29日(日)
幸せ健康まなび家講演会
http://www.kenkoumanabiya.com/seminar/20160529.html

第一部:「私たちは死んだらどこへ行くのか?」
~天国はあるのか?地獄はあるのか?それぞれどんな世界なのか?~

第二部:「この世とあの世の幸せの法則」
~この世の生き方で、あの世はどうなるのか?~

◆6月5日(日)
にんげんクラブ「運命を変える祈りの極意」in東京
http://www.ningenclub.jp/blog01/archives/2016/03/65_1.html