夜になっても天候は崩れず、空には無数の星が瞬いている。
静寂が満ちる闇夜に、突如それは起こった。
人が大きく叫ぶ声が上がり、ついで何かが破壊される爆音。
「何・・・・!?」
そこかしこから悲鳴が上がると同時に、蓮も褥の上で身を起こした。
本能的に感じた恐ろしさに身体がこわばる。
しかしそのためらいは一瞬で、すぐに起き上がると、障子を開けて外をうかがってみた。
「嘘・・・・こんなこと、あるはずがない・・・・」
蓮は目の前の信じられない光景に目を見開いて呆然とした。
城の周りには木造の家々が立ち並び、それらを囲むように辺りは一帯が畑である。その遠くの畑のあたりにに、いくつもの赤い点が瞬いている。よく見るとそれは一つ一つが松明で、おびただしい人数が城下に集まっているのが分かった。
大きな光源は、決して多くはない城下の家屋が燃えているようだ。
この城は、各地で権力を争う大名の城のように大きくはない。
山の上にある居城、今蓮のいるあたりでさえ、背の高い柵がめぐらせてあるだけの簡素なものだ。
木柵は徐々に低くなる土地に幾重にもめぐらされ、斜面を下りながら櫓門へとたどり着く。
そこだけは唯一土壁が左右へと続いているが、激しい戦に耐えうるものは何もない。
大軍に攻められては、朝日が昇る頃にはここ一体が焼け野原になってしまう。
「いや・・・・いったい、どうして・・・・」
首を振りながら、蓮はうわごとのように同じ言葉を何度も繰り返した。
それでも目の前の光景は消えてはくれなかった。光の点は絶えず動いており、行く筋もの川の流れのようにうねって、こちらに近づいてくる。
力の入らない手でそっと障子を閉めると、蓮はふらふらと褥に戻り、震える手を伸ばして懐剣に触れた。
掴むと、いつもよりもずしりと重く感じる。
もしものときの為に、寝るときは必ず手の届くところにおいているものだ。
もしもと言っても、お守りやおまじないのようなものだった。
まさか、本当に必要とする日がこようとは想像もしていなかった。
(母上・・・・父上は、どうしているのだろう・・・・)
それになぜ、侍女はここに来てはくれないのだろう。ほかの女中たちは――。
外と内からの悲鳴や怒声に気圧されたようにうずくまると、蓮は胸に懐剣をぎゅっと抱き締めた。
途方もなく長い時間に感じられたが、実際は四半刻も過ぎていないのかもしれない。
恐怖にうずくまる蓮だったが、ふとあたりが静かな事に気がついた。
(終わった、のだろうか・・・・)
あれほど耳をさいた悲鳴も怒号も、そればかりか人の気配すら感じられない。それらは恐ろしいばかりであったが、かといってこの静寂も蓮に安堵はもたらしてくれず、底知れぬ不安がつのるばかりである。
蓮は耐え切れず、襖に手を掛けた。
外に面した障子とは反対側に位置していて、先には暗い廊下が続いている。
「誰も、いない・・・・?」
うっすらと煙が立ち込め、焦げ臭いにおいが鼻をつく。
恐る恐る廊下に足を踏み出して進み、曲がり角から向こうを伺ってみると、眩しさに一瞬目を細めた。城にも火の手があがったのだ。
その上、火を通して向こう、廊下には数人の人間が倒れているのがはっきりと確認できた。中には女もいた。
「・・・・っ・・・・・・・・父上!母上!!五右衛門・・・!!」
燃え盛る城の一画で、蓮はありったけの声を振り絞って叫んだ。敵に見つかるかもしれない、などと思う余裕はなかった。
しかし、答えるものは居ない。
もう一度声をあげようと大きく息を吸い込むと、噴煙が混ざった空気が喉を刺した。
「ごほっ、ごほっ」
苦しさに咳き込む。出てくる涙は生理的なものか、感情からくるものか。
恐怖と孤独に胸が張り裂けそうだ。懐剣を抱きしめて地獄絵図のように変わり果てた城で途方にくれる蓮の耳に、不意に自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「・・・・こっちだ!!」
「五右衛門!」
「急げ!柱が崩れるぞ‼」
その言葉に従い、蓮は忍び装束の青年のもとに駆け寄る。
「怪我はないか!?」
訊きながら、五右衛門と呼ばれた青年は蓮の服や顔を確認するように目を走らせる。
やっと会えた幼馴染に、安堵で涙がにじんだ。
「大丈夫よ、それより何が起きたの!?」
「織田軍の奇襲だ。すごい勢いで火の手が回ってる!早くこっちに来い、逃げるぞ!」
「織田軍が・・・・」
手を取り、今さっき蓮が逃げようとしたのと反対方向へ走る。
だが、しばらく走ると先ほどと同じ光景が広がっていた。一度つけられた炎は、風に煽られすさまじい早さで広がっている。
「…っ!」
「くそっ、もうここまで火が・・・・」
逃げあぐねている蓮の視界の端に、倒れている人間が居る事に気づいた。思わず駆け寄り半身を起こした。口に手をかざすと、まだわずかに息をしている。
肩口には大きな切り傷があった。
「ああ…すごい怪我…」
「いいから、放っておけ!早く来い!」
逃げ道を思案していた五右衛門がすかさず言うが、蓮は動かない。
「待って!五右衛門、いつもの傷薬を…!」
「薬なんて使っても無駄だ!」
「やってみなくてはわからないでしょう!?」
悲鳴のような声で叫んだ蓮を、五右衛門ははっとした表情で見つめ返してきた。
蓮自身も、自分で制御しきれない気持ちをどうして良いのか分からず、震える唇をきゅっと結んで五右衛門を見る。
駆け寄った五右衛門は、そっと蓮の手を倒れていた男から引き剥がし、
「わかるよ・・・・頼むから、オレのいうことを聞けって…!」
厳しかった五右衛門の表情も、泣きそうにゆがむ。
どうすることもできない悔しさに俯いた蓮は、目を見開いた。両手が、血に染まっている。
手だけではなかった。
床に吸いきれないほどの血だまりの中に、蓮はいた。
「ちょっと待ってろ、」
呆然と血を見つめる蓮にそう声をかけ、五右衛門は突然燃え盛る炎の中に飛び込む。が、すぐに戻ってくる。
その手には一枚の羽織があった。
「ご、五右衛門、どこに行ったのかと…」
「文句はあとで聞く。お前は目立ちすぎるんだ。ちょっと我慢しろよ」
五右衛門は持ってきた羽織で蓮を包んで抱き上げた。
「きゃっ…」
「こうすれば、少しは火の熱さもよけれるし、お前が血をみなくてすむからな」
着物に包まれた姫の耳に、五右衛門のつぶやきがくぐもって届く。
視界が奪われると、今までよりいっそう強く周囲の音が耳に入ってきた。
ごうごうと炎が燃え盛る音に、脂の燃える臭い。
この国は、戦に巻き込まれた…そして、滅びようとしているのだ…
それが変えようのない事実だと理解すると、蓮は今度は五右衛門の腕から逃れようと、身をよじった。
「おい…!」
「おろして・・・・私もこの家の人間です、最後まで戦います…!」
「黙ってオレの腕の中でじっとしてろ!」
「ではせめて自害させて!生き恥をさらすわけにはいきません!」
「お前に自害なんてさせるか!お前を無事ここから逃がすことが、殿の命令なんだ。黙って従ってもらうぞ」
「父上が…そんなことを・・・・」
「・・・・とにかく、ここを早く出ないといけない。走るぞ」
直後、揺れ動く五右衛門の腕の中で、蓮は固く目をつぶった。
なにも考えられず、ただしがみつくようにして目を痛いほどにつぶった。
暫くして、五右衛門が立ち止まった。
「これから、お前の正体を隠して城を脱出――」
言い終わる前に、声を途切らせる五右衛門を不審に思い蓮はそっと顔を覗かせる。
「五右衛門?」
「静かに」
五右衛門は蓮を抱えたまま目の前の部屋にすべり込み、壁際にしゃがんで息を潜めた。
その直後に、今まで蓮たちのいた庭から声がはっきりと聞こえた。
「蓮姫!どこにいる!!」
「この声は・・・・?」
蓮を抱きしめる五右衛門の腕がぎゅっと強められた。
「織田・・・・信長・・・・」
振り絞るように吐き出された五右衛門の言葉に、はっと蓮姫の身体が固くなる。
姿は見えないが、壁を隔ててすぐ外にいる。
この国を襲った悪夢の元凶。
「この国、覇王たる信長が確かに頂戴した!!」
信長は、蓮がどこかで聞いていることを知っているのだろうか。
「他愛もない! 武にも智にも疎く、情にも弱い――愚かな君主を持つと、家来たちも報われぬな!!」
城内を悠々と闊歩しながら、信長は叫び続ける。
その言葉に、蓮は冷水をかぶせられたようにすう、と体温が下がるような感覚を覚えた。
(父上は愚かでも弱くもないわ。常に民や家臣のことを考えるすばらしい城主よ)
震える手を白くなるほど握り締める。
「聞いているか、姫よ!お前の父は、この信長が黄泉路に送った!!
最後の言葉を聞きたくば、姿を現すが良い!!」
「っ・・・・!」
哄笑する声を聞いた蓮は、今まで占めていた恐怖心にとって変わって別な感情がふつふつと湧き上がるのを感じた。
怒りをはるかに超えた、憎しみという感情を、蓮はこのとき初めて知った。
あの男が、すべてを壊した。
あの男さえいなければ。
自分でも持て余すほどの感情の激流に、体が震え、眩暈がした。脳内が紅く塗りつぶされてゆくようだ――
姫の震えを五右衛門が察したのか、抱きしめる腕の力が強まった。
「…今は、耐えてくれ」
「どうして!?何でこんな・・・!!五右衛門、仇を!父上の仇を討って!!」
「今は・・・だめだ・・・」
「どうして!?」
五右衛門の顔を見ようと必死で身を捩るが、蓮を抱きしめる腕はびくとも動かない。
さらに強く抱きしめられ、
「そんなことわかってる!オレだって、殿と一緒に戦いたかったよ! でも・・・・! 今のオレの、任務は・・・・お前を守ることだから・・・・!!
それが、殿との、最後の約束なんだ!だから今はお前も耐えてくれ・・・・!!」
「・・・・うっ・・・・」
耐え切れず、嗚咽が漏れた。
悔しさと怒りに、涙が止め処もなくあふれてくる。
「 ! 静かに! また信長が戻ってきた・・・!」
「姫を探せ!生きたまま無償で捕らえよ! 傷つけたものは首を飛ばす!
姫よ、どこにいる!! 視して地獄へ行くか、生きてわが寵愛を受けるか。
俺の愛は二つに一つ!この場で選べ!!」
ゆっくりと徘徊する信長に、今蓮たちにできることといえばただ一つ。
「・・・この城は落ちた。行くぞ・・・・」
五右衛門の言葉に、蓮は力なく頷くだけだった。