元木昌彦の「編集者の学校」

元木昌彦の「編集者の学校」

「FRIDAY」「週刊現代」「オーマイニュース」など数々の編集長を歴任
政治家から芸能人まで、その人脈の広さ深さは、元木昌彦ならでは
そんなベテラン編集者の日常を描きながら、次代のメディアのありようを問いただす

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 書こうと思っている本のタイトルを考えている。世界の名文句引用事典を引っ張り出してきて、いくつか書き出してみた。
思い出の重荷 サマーセット モーム 英国の作家
なまけ者
人生遊戯 トルストイ 人生は遊戯ではない
醜い書物 この世は一冊の美しい書物である イタリアの作家 ゴルドニー
荒地を渡る風 イギリスの言語学者 ボロー
生をぬすむ 楚辞 無駄に生きながらえる
悪くもない人生 モーパッサン
落丁の多い人生 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称しがたい。しかし、とにかく一部をなしている。 芥川龍之介
 この中では「なまけ者」というのが私の人生を言い表すにはピッタリする。
 本当になまけ者である。何かやらなければならないことがあれば仕方なくやるが、それが終われば日がな一日寝ていることもできるし、映画を五本も六本も見続けることもできる。
 読まなくてはいけない本は読むが、五、六年前から活字を読むのが億劫になってきた。
 まして自分の人生を振り返って書き残しておこうなどと考えたことはあったが、手を付けるとなるとやはり面倒臭が先に立ち、YouTubeで音楽を聞いたり、アマゾンで映画を見て時間を過ごす「怠惰」なほうへ流され一日を終える。あとは夕飯を食いながら酒を飲む日々である。
 古希を過ぎて人生の短さについて考えないわけではないが、死に対する恐怖はあるがまだ少し遠い先の話だと自分をごまかし、一日一生などと机の前に張ってみても、だからどうなるわけでもなかった。
 だが、親しい人たちがまるで強風になぎ倒されるようバタバタと病に侵されるのを見ると、明日は我が身だと、いくら怠け者の私でも思わざるを得ない。
 自分が生きてきた人生など語るほどのものなどないもない。またそんなものを読んでくれる人などいるはずはないことも知っているつもりである。
 波乱万丈でもなければ順風満帆でもなかった一会社人間のあくびの出るような人生でも、自分にとってはやり直すことのできないかけがえのないものであったことは間違いない。
 一人も読者がいなくても書いておこうと、怠け者の私が珍しく決めた。今年の抱負。毎日四百字詰め原稿用紙一枚ずつでも書いていこうと思う。
 『八十路から眺めれば』(マルコム・カウリー・草思社文庫)にこんな言葉があったから書き留めておく。
 ゴヤは72歳でスペインの宮廷画家の地位を辞して、もっぱら自分のために絵を描こうと決心する。
 80歳の年には,二本の杖をつき、白い髪と髭に覆われた老人を描いて、その絵の片隅に「まだ勉強中」と書き込んだ。
 カトリック詩人のポール・クローデルは日記に書いた。
 目もだめ、耳もだめ、歯もだめ、足もだめ、呼吸もおぼつかない! しかし、とどのつまり、それらのもの無しでも満足に生きていけるというのは驚くべきことである!
 詩人イェイツは、みずからを「邪悪な野生老人」と称した。
 まだまだこの域にはほど遠い。
 今日で70歳になった。古来希なる歳になったのである。
 ずいぶんこのブログに御無沙汰した。
 それなりに忙しかったこともあるが、70を前にしてやっておきたいと思うことが多くあり、そのどれにも手を付けられずに来てしまったため、ブログを書くきっかけがなかったのだ。
 この断続ブログも、これが最後になるのだろう。今度やめたら永遠にブログともおさらばだ。
 70を機に、これだけはやっておかなければという「思い」がある。それは自分の人生や仕事、袖すり合った友人たちのことを書いておくことである。
 急いでも仕方ない。少しずつ書き始めて、私がやっているe-ノンフィクション文庫に入れていこうと思っている。
 以前からそう考えてはいたが、決意させたのは、つい一昨日の「事件」だった。そのことを書いてみたい。
 11月22日(日曜日)、昼前に家を出て、代々木公園にほど近い駅で降りた。某劇団の舞台稽古を見るためである。
 その劇団の演出家は,私の敬愛する大先輩で,今年82歳のはずだ。ある政治家の紹介で知り合ったのは30年以上前になる。学生時代から演劇を始め、当時すでに大演出家として名高かった。
 なぜか私を可愛がってくれ、ゴルフの手ほどきから劇団員とのお見合いまでセッティングしてくれたことがある。私の結婚式にも参列してくれた。30代半ばで会社を辞めようと思ったとき、真っ先に相談した人でもある。
 イギリスでヒットしたミュージカルを新宿のテント張りの小屋でやり大評判になった。全国にその劇団専用の劇場をつくり、日本を代表する劇団になっていった。
 毎回その劇団でやる劇やミュージカルに招待され、2人だけで飲むことも度々あった。
 だが、ここ数年は疎遠になっていた。一度ゆっくり会いたいものだと思っていたら、しばらく前にその人が認知症になったということが週刊誌で報じられた。
 頭脳明晰、弁舌爽やかなあの人がと驚いたが、症状はさほど進んではいないようで安堵していた。だがその後、劇団とこじれ、袂を分かつことになったと聞いた。
 今年の夏頃、その演出家の部下の方から連絡があり、久しぶりに舞台をやるので見に来てくれといわれた。当日、入り口に演出家がいたので、「お久しぶりです」と挨拶し、先方もニコニコ笑って会釈してくれた。その時の印象では、さほど気になるところはなかった。
 昨日は、早稲田大学の学生たちと一緒に舞台稽古を見て、一段落してから,学生からの質疑応答に演出家や何人かの俳優たちが答えるというもの。中国からのテレビカメラも入っていたが、それ以外は私だけだった。
 稽古が始まると演出家はときどき眠っているのが気になったが、劇団員を指導する言葉には違和感はなかった。いったん稽古が終わって、その演出家が1階へ降りていったので、私もその後を追った。
 階段の下でバッタリ彼と会った。「元木です。ここは劇団発祥の地といってもいいところですね。懐かしいな」と声をかけた。
 当然、そういえば君もよくここへ来たなといってくれるものだと思った。しかし、気付かなかったのだ。演出家は私のことが分からなかったのである。
 ジッと私を見て「取材の方ですか?」、そういって階段をのぼっていってしまった。ショックだった。たしかに最近は御無沙汰しているが、忘れられるような間柄ではないと自惚れていた。
 学生たちからの質問には、答え慣れているのであろう、さほど見当違いのことはいっていなかったように思う。
 まだらなのかも知れない。だが、もう一度彼に名乗ってみようという気にはならなかった。帰り道、無性に寂しかった。よく、自分の親が子供の自分に向かって「どちら様でしたか?」といわれ、愕然とするというという話を聞く。それによく似た感情であろう。一日経ってもそのショックから立ち直れないでいる。