たとえば日記というものが《その日あったこと》のログだとするならば、短歌というのは《その日いたこと》のログなんじゃないかと思うことがある(小説は、《ずっとわたしがいたこと》のログ)。《その日あったこと》が《その日いたこと》に詩的置換されるとき、《それ》は、短歌に、なる。

だから歌集を読むということは、《その日あなたがいたこと》のログを、《その日わたしもいたこと》として、ずっとロムっていく作業になる。そこに・そのとき・このわたしも・そのかたちで、いたかもしれなかったこと。ひょっとするとそれはわたしの詩的置換かもしれなかった《たまたま的存在論》。

こないだの小津夜景さんのイベントで、ゴダールの話が少し出ていたが、もしかすると切字や切れというのはゴダール映画のなかの唐突な音や映像のカットにも近いのかもしれない。ゴダール映画は俳句なんだ、とするとすごくゴダール映画がわかりやすいような気がする。ゴダール映画は短歌なんだ、よりは。

じゃあ短歌的な映画とはなんだろうと少し今考えてみるのだが、たとえば新海誠の映画ではどうだろうか。新海誠の映画では、人物の内面にちゃんと都市や風景や音楽が答えてくれる。ゴダール映画では、人物の内面に返事はしてくれないが(つまり切っちゃうが)、新海映画では風景が答えてくれる

昔、夜景さんとピナ・バウシュの話をしたことがあるが、ピナはたぶんふだんの身体のなかに〈切れ〉をわざわざ持ち込んだひとである。ピナ・バウシュの身体=運動は、キスでさえ〈切れ〉が入る。いびつな機械のような身体になっていく。バスター・キートンなんかも身体に〈切れ〉を持ち込んでるかも

キンキキッズ「全部だきしめて」を聴くと、短歌定型にめいっぱい(というかめちゃくちゃ)音数を詰めたときにどうなるかが体感できる。つまり定型はそのままに早口になる。例えば「試さなくて/いいんだよ」の6・7のようなところが「ぼくを試したりしなくて/いいんだよ」の12・5として歌われる。

音律におさめるために早口になるので何を言っているのかがよくわからなくなるというデメリットがあるのだが、そのかわり、音そのものへ、音自体そのものに敏感になるというメリットもある。逆説的なのだが、早口は意味を疎外するために、音そのものに敏感になり、聴くということが浮かび上がってくる

この早口詰め込みというのはそもそもこの曲をつくった吉田拓郎にまつわるもので、まるでボブ・ディランそのものじゃないかという「春だったね」という吉田拓郎のすてきな歌があるのだが、これもたしか詰め込み型だったように思う。思い返すとボブ・ディランも割とそういうとこあったのかもしれない

私はボブ・ディランの「メンフィスブルースアゲイン」という歌が好きなのだが、割といろんな歌詞のバージョンがあって(ボブ・ディランが忘れるらしい。8分くらいのとても長い歌だし)、ディランにとっては、歌詞は詰め込まれながらも、それは音を浮き彫りにするためのものだったのかもと思う時もある