三島由紀夫『仮面の告白』が示すのは伝統的な男色ではない。キリスト教的な記号に囲まれて「私」に自覚されるのは、まちがいなくホモ・セクシャルだ。
日本的な男色文化を西洋的なホモ・セクシャルにパラダイムチェンジしたのが『仮面の告白』だったのである。
その意味において、『仮面の告白』には近代文学から現代文学への鮮やかな転回の軌跡が示されている。

石原千秋「古典としての現代文学」『一冊の本』
ときどき、詩ってなんだろう、と考えているのだが、詩とは、ことばの緊張状態のことではないだろうか。小説の長さだとずっと緊張していると疲れてしまう。でも詩の短さなら、言葉の緊張や緊迫の持続を試してみることができる。そういうことばのテンションがマックスな状態を試すのが詩なのではないか
行動科学マネジメントが認める行動は、「MORSの法則」という概念で定義づけられたものだけです。

M=Measured(計測できる)
O=Observable(観察できる)
R=Reliable(信頼できる)
S=Specific(明確化された)

これらを充たした形でとるべき行動を示してあげたとき、はじめて人は「どう動いたらいいか」がわかります。

  石田淳『行動科学マネジメント』
チェーホフが生きた時代には、帝政ロシアの社会的矛盾が次第に激化し、革命運動が盛り上がっては抑圧され、革命家による皇帝や政府要人の暗殺などのテロリズムが蔓延した。
そんな時代にチェーホフは、革命家にもならず、文学の特定の流派にも属さず、「主義や思想を持たない」作家として、しかしいかにも医師らしい冷徹な観察眼と人間洞察の能力をもって生き抜いた。

チェーホフはいわば「後から来た人」であって、彼が作家として活躍を始めたとき、大きな形式のものはすべて試みられてしまったあとだった。
また彼は思想的にもなんらかの体系を構築したり宣伝したりする立場にはなかった。
確固とした体系的価値観が崩れる時代にあって、彼は滅びゆくものの悲しみといまだに到来しないものの予感の間をつなぐ存在だったのだ。
そして世紀末から二十世紀のモダニズムへと文化や芸術の思潮がなだれこんでいくとき、あらゆる流派から一線を画しながら、同時代の気分を見守り続けた。

  沼野充義『世界の名作を読む』

めとめ

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食べ物屋さんに行ったら店員のひとが新人訓練中のひとですごく眼をみて話しかけてくるので、最初は気圧されておどおどしていたものの、これはひとと眼をあわせてしゃべる練習のチャンス、と思い、わたしもすごく眼をみて話す。すごく眼と眼が眼と眼をみて話す。
『夢十夜』「第三夜」が一番恐いのは、我々が自分というものを成り立たせている認識の内実を問うと、無根拠な他者の言説によって記憶がつくられているのかもしれないということに思い至る恐怖なんだと思います。
自分の生まれる前のことは知らないわけですし、もの心がついていない頃とか、記憶が記憶として言語的に定着していない時期のことというのは思い出すことはできません。
つまり、自分の経験的な認識としては成立していないわけです。
これはもう、他者の言うことを鵜呑みにするっきゃない。
それが真実なのか、それとも嘘なのか、ということを何らかの形で確かめる術は、自分ではもっていないわけですね。
経験的な出来事ではなくて、他者の言葉によってのみ与えられてしまうことで自分の記憶が構成されて、自分はこういう人間だというふうに思わされていく……。
それが、背負っている子供によって非常に露になっているという感じがします。
人間の自我の中における過去、現在、未来というふうに考えてみると、我々は常に現在の自分から過去の自分を見つめて、「俺はこういう人間だったんだ。こういう反復的な自我を歩んで来たんだ」と納得しているつもりなんだが、じつは、その同じことをまったく別の意味付けで一年後、二年後の未来の自分にやられてしまう可能性があることは忘れている。
未来の自分に、現在の自己像を否定されてしまうことの恐さに関して、僕らは普段ほとんど意識しない。
過去の自分を特権的に見つめて自己認識したつもりになっているが、それを未来の自分にやられたとき、今の自分はどうなってしまうのかという恐怖に突き当たるような気もする。

小森陽一「転移する夢」『漱石研究8』