徳田 秋声『仮装人物』(講談社文芸文庫) | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

徳田 秋声『仮装人物』(講談社文芸文庫)



徳田 秋声
仮装人物』(講談社文芸文庫)

一般的に秋声の実体験をもとにし、うら若い美女に翻弄される中年作家の愛欲を描いた作品といわれるわけだが、おそらくそういった類型的な私小説の範疇に収まるものではまったくなく、むしろ愛欲だの色恋沙汰などはどうでもいいのではないかと思う。本書は、主人公・庸三が新しい時代と邂逅し、そこで変容してゆく自己に戸惑うことを延々と描いたものなのではないか。それは秋声が明治期から作家活動を開始し、紅葉門下四天王と呼ばれたような、「モダン」とまったくそぐわない作家であったことを想起してもわかるかもしれない。

換言すれば、関東大震災をはさんで分け隔てられた東京に生きる明治期の作家が、モダンそのままの女性に、恋愛感情ではなくして新しき時代を自己にもたらすものとしてひきつけられる一編なのではないだろうか。

したがってここには、私小説のような情痴は描かれていない。もちろん、葉子なる庸三の若き恋人とのそれはふんだんに盛り込まれている。にもかかわらず、本書の眼目は、都市の速度についてゆけない作家がモダンとしての女性と邂逅することで次第に加速し、「江戸から東京へ」という震災後の激変する都市のなかに身を寄り添わすその過程にある。

踊り場へ足踏みすることになり、そこでは何か拘りの多い羽織袴の気取りもかなぐり棄てて、自由な背広姿になり、恋愛の疲れも癒すことができた。そしてその時分から埃まぶれの彼女の幻影も次第に薄れてしまった

これは本書を締める文章であるが、「拘りの多い羽織袴」から「自由な背広姿」というこの部分にこそ、この一編のテーマは集約されているといってよい。それはこうだ。果たして「踊り場」に「羽織袴」で行けるだろうか? 本書は、背広に馴染めない羽織袴の男が、いかにしてそれに慣れ親しんでいったかという記録なのであり、たとえば「彼女との事件をとおして自己を描くこと、彼女の実際にあった姿を存分に追求して、もって彼女との関係において自己の偽らざる実体を見きわめること」に本書の「直接の目的」を見出す小田切秀雄の評言は、間違ってはいないにしても、本書を実につまらなく読み込んでいるといってよい。

背広姿に慣れればここで展開された「恋愛」らしきものから癒されるのは当然である。何せ、「疲れ」は「恋愛」ではなく、「背広」から来ているのだから。

おそらく読了後に再び冒頭を読み返すならば、ただただ奔放な女性にたぶらかされる作家の欲望を淡々と描いているだけに見えたこの一編が、実に周到な構成をもっていることに驚愕するに違いない。

庸三はその後、ふとしたことから踊り場なぞへ入ることになって、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、ある時のダンス・パアティの幹事から否応なしにサンタクロオスの仮面を被せられて当惑しながら、煙草を吸おうとして面から顎を少し出して、ふとマッチを摺ると、その火が髯の綿毛に移って、めらめらと燃えあがったことがあった。その時も彼は、これからここに敲き出そうとする、心の皺のなかの埃まぶれの甘い夢や苦い汁の古滓について、人知れずそのころの真面目くさい道化姿を想い出させられて、苦笑せずにはいられなかったくらい、扮飾され歪曲された──あるいはそれが自身の真実の姿だかも知れない、どっちがどっちだかもわからない自身を照れくさく思うのであった

「どっちがどっちだかわからない自分の姿」。それはいままで培ってきた自分と「踊り場」で踊る自分が葉子という女性を介して同居し、そして後者へと変容してゆくことへのとまどいのあらわれである。「真実の姿」を「敲き出そう」とすればするほど、それは不明瞭になってゆく。だからこそ彼は「サンタ・クロオス」という「仮装人物」として登場しているのである。しかし曖昧な「真実の姿」を曝し、「どっちがどっちだかわからない」「仮装」であるのは「自分の姿」だけではない。作品の舞台である大正15年から昭和2年にかけての東京も同様であった。

モダアニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並べ、彼方からも此方からも騒々しいジャズの旋律が流れてくるのだった。[…]昔しは油紙に火のついたように、べらべら喋る円蔵がかかっていて、『八笑人』や『花見の仇討』や、三馬の『浮世床』などを聴いたものだったが、今来てみると、それほどの噺家もいなかったし、雰囲気もがらりと変わっていた。あれからどのくらいの年月がたったか。日本にも大きな戦争があり、世の中のすべてがあわただしく変化したが、世界にも未曾有の惨劇があり、欧洲文化に大混乱を来たした。思想界にも文学界にもいろいろのイデオロギイやイズムの目覚ましい興隆と絶えざる変遷があったが、その波に漾いながら独身時代の庸三の青壮年期も、別にぱっとしたこともなくて終りを告げ、二十五年の結婚生活にも大詰が来て、黄昏の色が早くも身辺に迫って来た。彼は何か踊りたいような気持に駆られ、隅の方で拙い踊りを踊りはじめたのだったが、もとより足取りは狂いがちであった。独りで踊りを持て扱い引込みもつかなくて、さんざんに痴態を演じているうちにも、心は次第に白けて来たが、転身の契機もそうやすやすとは来ないのであった

都市の速度に追いつかず、「踊りたいような気持に駆られ、隅の方で拙い踊りを踊りはじめた」彼の「転身の契機」は、もちろん葉子なる女性である。そして繰り返すが、本書は変わりゆく都市と時代のなかに生きる、明治や江戸期の人間の苛立ちと羨望、そして気まずさが、次第に馴化され「仮装人物」として都市を生きるようになるその「成長」過程を描いたものなのである。

したがって小田切やその他多く批評のごとく、本書を欲望体験の直視などと片つけてしまってはならない。ここには関東大震災で断絶した日本を、「仮装人物」と化することで馴染んでゆくある日本人の姿がある。確かに書くに値する自己が存在するという素朴な観念は付きまとってる。それでも、本書はただの私小説ではない。むしろ「自分」を覗き込むことで、日本における世代と都市の断絶を見出した歴史小説といえるだろう。

初出:1935・7-1938・8『経済往来』
★★★★☆