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Sat, May 23, 2015

ノルベルト・エリアス『死にゆく者の孤独』

テーマ:人文・社会科学
ノルベルト・エリアス『死にゆく者の孤独』(法政大学出版局)

死の意味やその解釈は、社会のあり方によって変化する。

暴力や病、飢饉などに人が晒された時代では、死は身近なものであり、現代よりはるかに公共のものであった。

だが、それまで公共のものであった死は文明化とともにその性格を変えた。いまや社会は、かつてないほど安全で、市民たちの人生はそれなりに見通しがつき、平均寿命も約2倍ほどに伸びた。

このことにより、死は非日常となった。死はひとびとから忘れ去られ、忌むべきものとなったのだ。たとえば、報道では死体は隠され、大人たちは人の死を子どもたちから出来る限り遠ざけようとする。その意味で、死は排除されている。

未だかつて、ヒトの死体がかくも無臭のままに、これほどの技術的完璧さをもって臨終の部屋から墓地へと搬送された例はない。

死を隠すということは、人の命は有限であり、必ず私もお前も死ぬんだという事実を次の世代に伝えないことと同義である。

そういえば、人は人生からいかに生きるかを呼びかけられおり、それに応答する責任があるのだと、ヴィクトル・フランクルは書いている。彼にしたがうならば自らの人生への責任は、生は有限であることの自覚のうえにこそ、よりよく果たされるのではないか。

それは、人が他人と絡み合い相互に関係しあうこと、簡単にいえば、わたしは一人では生きていけないという当然の認識と密接に連関している。

いわば、わたしは、他人に対してどのような存在であるのか、どのような意味があるのかと問うことと、自らの人生への応答は、確実に繋がっているのである。

現代において人は孤独化を深めている。現代社会のように人間がこれほど音もなく、かつこれほど衛生的に死んだことは歴史上かつてなかったし、これほど孤独を促進するような社会的条件の出現もまた、未曾有のことなのである

死が、私からも社会からも隠されることなく、また死に際してどこかの病院だとか施設に隔離されることもなく、人間本来のありかた、さまざまな人たちと繋がったままで死にゆくことについて、再び考えてはじめてもよいだろう。

人は社会的動物であり、「わたしは他の人間にとってまだ意味のある存在なのだ」という思いを抱いたまま死に臨めないことが、どれだけ彼/彼女にとってつらいものであるか。

逆に、死にゆく自分が、他の人にとって何者かであり、最後まで意味を持ち続けたということは、肉体的苦痛とは別の次元で、死の苦痛を和らげるのではないか。他の人と繋がった自分の人生に死ぬまで責任をもち応答しようという人生への意志は、ある種の救いといえるのかもしれない。

もちろん、わたしは丸山夏鈴の死とその言葉、アイドルが死ぬときって完全に忘れ去られたときだと思うという言葉を考えているのである。

★★★★☆
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Sat, May 09, 2015

黒木曜之助『横を向く墓標』(春陽文庫)

テーマ:ミステリ
黒木曜之助『横を向く墓標 (1979年) (春陽文庫)

作者は新聞記者としての嗅覚を生かし、原研が東海村にできた翌年に早くも「東海村殺人事件」を発表(この作品については、「黒木曜之助『東海村殺人事件』を読む」を参照のこと)。

これは日本原発小説の嚆矢のひとつといえそうだが、その3年後に執筆された横を向く墓標(『宝石』1962年6月号増刊)も、国産原子炉がはじめて臨界に成功した頃の東海村原研を舞台とした作品で、茨城においてお大尽の扱いであった原研のエリート意識であるとか、原子炉に食わせてもらっているような東海村の胡散臭い雰囲気などがよくでている。

原研研究員の失踪を調べるうだつのあがらない老刑事が、原研職員に馬鹿にされながら捜査を続け、次第に研究所内の醜聞にいきあたる一方、出奔した刑事の娘がそこに絡んできて都合よく盛り上がってくるあたりの展開の妙は、黒木ならではのものである。

わざわざ原研を舞台にした失踪事件ということでその意味が問われるわけだが、放射能性廃棄物運搬車を用いるネタが使われているという一点において、それは果たされたといえる。

しかし、田舎と都会の対立の構図をもってくるために原研にご登場願ったといった感が否めず、そこにミステリとして大した意味があるわけではない。

さらにいえば反核であるとか原子力への警告といった意図はまったくなく、ただ地元に物珍しい施設があったから使ってみたという感じだろう。

それより、小説よりも奇なりといわれた連続身代わり殺人を小説として再構成し、犯人大西克己の生涯を想像力たくましく追いかけた過去のない墓標は、なかなか読ませる力作である。

身持ちの悪い母親の元に生まれ、祖父母を両親といわれ育った大西が女に手を出しては失敗を続け、新しい戸籍を手に入れるために、山谷やら茨城あたりの路地で犠牲者を物色してはポンポンと人を殺すあたりの軽いノリは、重厚な筆致を得意としない黒木によくあっている。その意味で驚きはないが、悪漢小説の中編としてなかなかよい。

ちなみに大西事件の捜査陣の様子を丹念に追い、その写真自体が類まれなるノワールと化した奇跡の写真集『渡部雄吉写真集 「張り込み日記」 Stakeout Diary』を手にとったものならば、この事件の捜査陣がどのようなものであったのかを知りたいはずだが、この中編は大西をメインに据えており、その望みは果たせなかった。

しかし『張り込み日記』とクロスさせつつ読むと、興味は倍増のはずである。

何度か書いたと思うが、昭和30年代は1930~1940年代の延長線上、戦前と連続していると考えるべきであって、今のわれわれが想像する社会とは相当程度に異なっていることは、頭に入れておいていいと思う。われわれと連続した時代は、ようやく昭和40年台からはじまるといってよい。

したがって『張り込み日記』のような写真集は、このあたりの日本ミステリ、清張であるとか初期の水上勉を読むために実に有用なのである。

最後の日立鉱山の煙突をテーマとした不安な墓標は、煙突を愛してやまない老鉱夫がなぜ人殺しをしたのかというテーマを追ってゆく短編だが、黒木お得意の都合のよい人間関係が暴かれていくばかりで、それほど優れたものではない。

全般的に、茨城というあまり印象に残らない土地のなかで、目一杯インパクトがあるものを引っ張りだしてミステリに仕立てたという中編集。ミステリそのものというよりも、舞台や素材の面白さで読ませるといえる。

必読とはとてもいいがたいが、ブックオフあたりで見つけたら絶対に買っておきたい。

★★★☆☆
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Tue, December 02, 2014

『無秩序の活用』R・セネット:都市を変革し、ともにわれわれも成長しよう。

テーマ:人文・社会科学

リチャード・セネット
無秩序の活用―都市コミュニティの理論 (1975年)

エリック・エリクソンとコミュニティ論を重ね合わせ、のちのセネットを予感させるような内容となっている。

本書の概要は以下のようなものだ。

現代の都市とは、豊かで複雑な経験なくして生活できるように作られており、そのため、ひとは成人期を迎えることなく青年期に閉じこめられている。

国家により秩序づけられ、ひとびとを「訓育」する場としての都市は、彼らを停滞した青年期へと永遠にとどめておく。

しかし、ひとを成熟へと導くのは、かつて都市を特徴づけていた社会的接触の複雑さである。

秩序づけられ、ひとびととの豊穣な関係が欠落した都市に物足りなさを感じる中産階級は、さまざまなコミュニティ作成を通じ、成熟した成人期へと成長してゆく。

現代都市における豊かさ退屈さは、かえって彼らを国家に統制されざる、その意味で「無秩序」の都市コミュニティへと駆り立てるだろう。

つまり、タイトルの印象とは異なり、本書は革命の原動力をスラムに求めるようなお話ではない。

都市のあり方を変革することで、ともにわれわれも成長しようという、地味にラディカルな一編である。

原書は70年に上梓されたものだが、無縁だの限界集落だのといわれる今こそ、読まれてしかるべき作品だ。

★★★★☆
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