市井の情念と論理 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

市井の情念と論理



戸板 康二
目黒の狂女―中村雅楽推理手帖』(講談社)

それまでは毎年10本程度の短編をものしていた戸板が、「グリーン車の子供」で推理作家協会賞を取るや否や原稿依頼が急増。本書はその時期に描かれたものを中心に収めた名探偵・中村雅楽ものである。

『奈落殺人事件』(文芸春秋)どころか、『グリーン車の子供』(講談社文庫)ですら絶版のこのご時世、もはや雅楽ものを読んだことがない若人がいてもおかしくない。もうそこらでいわれていることだが、戸板は「日常の謎」派の元祖である。北村薫の円紫ものの歌舞伎版だと思えばよい。

要は日常の些細な違和感から展開されるこじんまりとした「謎」に隠された、その裏の論理を解明することで人間の情念やら錯綜した心理が見えてくるといったものだ。ただし北村の方が戸板よりも、流麗な筆致で悪意を描いて上のような気もするが、戸板には彼ならではのよさがある。

それは名探偵・雅楽は、ラストにいたって事件の核にある人間の情念をずばりと一言で整理してしまうのだが──いわゆる啖呵を切る? 彼が俳優であるがゆえにそれがまったくいやみではない。普通の人間ならば、くさーとしらけるところを、歌舞伎界を舞台にしたことで何の嫌味もなく、しみじみと受け取ることが出来るのだ。これは雅楽のきめせりふだけではなく、登場人物全体、そしてやや気取った落ちのつけ方にまで当てはまる。よく知らないが、歌舞伎とはこういったものなのか?

しかしながら、それだけではなく優れた謎の設定もちらほら見受けられるところに、雅楽ものの妙味がある。いわば日常(市井の情念)+論理。

たとえば、ワトソン役の「私」が同じバス停で立て続けに三回、それぞれ別の発狂したと思しき女性たちからカーネーションを手渡された「目黒の狂女」はそのいい例だ。

ほかにも「私」が行くと必ず店の奥に引っ込んで出てこない、飲み屋の女性の謎をめぐる「女友達」、宿泊先のホテルで女形の鞄を盗んだ女性の手口とはいかなるものだったか?という「女形の災難」に、未熟な若手俳優が突如開花した真相を探る「先代の鏡台」、蟹嫌いの俳優に雅楽名義で蟹を送った人物の目的を追求する「楽屋の蟹」、将来有望な子役俳優は何故自殺したのか?(「砂浜と少年」)、タニマチのあり方について雅楽が若手に問う「俳優祭」、ホテルの女将が殴打犯人をかばう理由は何だったのか?(「玄関の菊」)、急に香水を匂わせるようになった女形の妻に隠された秘密とは?(「女形と香水」)、楽屋でなくなった貴重な切手はどこへ?(「コロンボという犬」)といったように、殺人などは一見も起きない。血が出てくるのは一回だけ。実に平和な作品集である。

表題作以外は、人情話に傾斜しすぎている感もあるが、すいすいと楽しめる一冊。ちなみに入手難易度が意外に高い。

★★★☆☆
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「目黒の狂女」1976・12『別冊文藝春秋』
「女友達」1977・4『小説現代』
「女形の災難」1977・5『問題小説』
「先代の鏡台」1978・2『小説宝石』
「楽屋の蟹」1978・4『別冊小説新潮』
「砂浜と少年」1978・11『小説現代』
「俳優祭」1980・9『別冊小説宝石』
「玄関の菊」1980・1『小説現代』
「女形と香水」1981・4『小説新潮』
「コロンボという犬」1981・11『小説現代』