『神』の力に委ねていたことが考えられます。学生時代から外国人の友人や恋人、先生、家族や親戚に囲まれて育った為、彼らが持つ宗教観の大多数であったキリスト教に影響を受けたことも考えましたが、
我が家の父方は熊本出身の武家で、(細川家に筆頭家老として仕えたと幼い頃から聞いて育ちました)法華宗であり生粋の仏教でしたから、
原因はもっと自分のイメージの外にありました。
それは、恐らく小さい頃に自分が何でもできたことで自分のことを『自分は神の力と繋がっているんだ』と思い込んだでしまったことです。
長女で家族親族に大切にされたことや、小さい頃から自分のイメージしたことは何でも思い通りにできる‼︎と錯覚してしまったこと、超能力を使って遊んだりしていた記憶が、自分を『神に愛されている存在であり、神と私は一つであり意志の力で何でも思い通りにできるんだ』と本気で錯覚させた背景でした。
そしてこれが恐るべきことに、大人になり社会人になっても、自分が思った通りにできる世界が守られて来た為に、翻って思った通りにならない世界に出会うと、否が応でも思った通りにならないと怒り嫌がり、ならなければそれを邪魔した相手をこれ見よがしに恨んで無視したり、それ以上近づいたり関わったりしないようになりました。
そして、その恨みを抱いた相手というのが、恐るべきことに、小さい頃から大好きで大好きでたまらなかったはずの『両親』だったのです。
『神=私』を無視したら絶対許されないんだから‼︎という様な感覚に近かったのかも知れません。
もちろん、それらは全くの無意識だったからこそ更に厄介だった訳です。大抵の人が、自分の無意識は野放しで、意識化して明確に客観視したり、その執着をゼロ化したところから認識判断思考の再構築ができません。