竹宮少尉と442部隊 | 守田比呂也の見たり聞いたり、話したり

竹宮少尉と442部隊

竹宮帝次君のことを知ったのは、つい最近である。

大正12年末にカリフォルニア、サンペドロ生れの日系2世。高校まで米国で暮らしていたが、大正13年に公布された「排日移民法」の煽りを受けて、一家は熊本へ帰る。


その後、竹宮は青山学院大学に入学。昭和19年、海軍予備学生として旅順の教育隊に入隊。この時から同じ釜の飯を食う仲間となったわけだが、所属分隊が違っていて面識はない。


「竹宮帝次を偲ぶ会」という冊子によると、彼は旅順での基礎教育を終了後、専門術科として水中特攻隊を選んでいる。

通常、彼のような特攻(母国語は英語)の持ち主は暗号解読とか通信科へ行く筈だが、分隊長ら上官が敢えて特攻に進ませたのは、彼の強い意志によるもの、たとえば排日移民法によって止むなく日本へ帰国せざるをえなくなった両親の無念さを晴らすため、というような気持ちが強かったのではと推測できる。


昭和20年、特殊潜航艇「蛟竜」の艇長として小豆島の基地に属していた竹宮は突然、連合艦隊司令部に転属。

以後、日吉の司令部で米国のラジオ放送を聴く事が任務となる。その結果、彼は誰よりも早く日本の敗北を知った。


終戦後の竹宮は忙しかった。

米国戦艦ミズリー号での降伏調印式の下準備をする日本軍側の通訳に選ばれ、軍令部の参謀大佐とともに駆逐艦「はつかぜ」で伊豆沖に碇泊するミズリーに向かうことになった。

アメリカ艦隊の全ての砲門は「はつかぜ」に向けられている筈で、その時の緊張感はただごとではなかったと思われる。

竹宮はミズリー号での降伏調印式の本番にも通訳として出席している。


異例なことであろう。

彼は海軍兵学校出身の正式の士官ではない。日系2世とはいえ、特攻隊にいた最下級の予備将校である。余程、両国の信頼を得た人物だったと思う。波瀾万丈の当時のことを聞いてみたいが、残念なことに今年の始め、竹宮は逝去した。享年86才。


太平洋戦争当時、アメリカ陸軍の最強部隊といわれた「442部隊」は日系2世のみで編成され、欧州戦線でその名を轟かせた。その442部隊のドキュメンタリー映画が公開されたのは竹宮のことを知ったあと、しばらく経ってからであった。


「排日移民法」で圧迫されながらも米国に留まり収容所生活を送った日系人と、竹宮一家のように帰国の途を選んだ人たちの境界は何だったのか、不逸強者にはよくわからない。ともあれ、残留者の2世たちがアメリカへの忠誠心の現れとして軍隊へ志願した。やがて彼らは442部隊としてイタリヤ戦線で難攻不落のドイツ軍部隊を潰滅させ、さらにフランスでもドイツ軍を打ち破るが、彼らの損害も甚大なものであった。

「442部隊」の3分の2が戦死。

彼らが戦い倒れた戦場の跡には立派な墓地がつくられ、アメリカ政府が管理しているという。

同じ2世の竹宮は442部隊の兵士たちをどうみていたのか・・・。


因みに彼はその後も米国海軍に重用され、横須賀の米海軍司令部に定年まで勤務した。米国は彼の功績をたたえ、横須賀にタケミヤ・ハウスという名のクラブをつくっている。


442部隊と竹宮、大袈裟にいえば歴史の皮肉、個々でいえば人間の運命としかいいようがない。