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2012年02月01日(水)

山本長官VS南雲長官

テーマ:ブログ

映画{山本五十六」を観てきた。

まず、入りのよさに驚いた。封切りの何週目になるのか知らないが、四週目以上にはなっている筈。

観劇当日は月曜日の昼過ぎで、天気予報は夕刻以降の降雨を告げていた。にも拘らず、館内は満員。当然のことながら白髪頭の仲間連れが多い。そのなかにあって若い人の顔も結構多かった。それだけで何か嬉しい気分になったが、なんでかなぁ?


作品としての出来については批評家がいろいろ言っているが、観ていて興味深かったのはハワイ攻撃の司令長官、南雲中将の存在だった。南雲長官は奇襲部隊から二次攻撃の必要性を再三具申されながら「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)と柱島にいる連合艦隊へ打電してハワイ沖を去っていった。

山本司令長官の幕僚たちは、なぜ南雲部隊は二次攻撃をやらんのか、と色めきたった。

そうしたなかで山本五十六は「南雲さんには南雲さんの考えがあってのことだろう」と司令塔から出てゆく。


たしかに南雲長官には彼なりの考えがあったのだ。

ハワイ奇襲部隊を率いる艦隊の司令長官として出発するとき、彼は軍令部総長から「戦いは長くなる。一隻の艦艇も傷つけるな」と念を押されたのだ。


山本五十六がこのことを知っていたかどうかは知るよしもないが、もし、あの時、連合艦隊司令長官としてハワイの第二次攻撃を命じていたら事態はどうなったであろうか。


ミッドウェイ海戦の日本軍惨敗の種はこの時の山本VS南雲の間で育っていたのではないか。それにしては太平洋戦争におけるキーマンたる南雲長官の最後が何も描かれていなかったのはさびしい。


海軍軍人の仲間意識というか身内認識で思い出すことがある。

福留参謀長は搭乗機の不時着によって敵の捕虜となったが、生還後また軍に復帰した。捕虜となった間に持参していた暗号帳をすべて調査され、解読されてしまっていた。この暗号がその後も使用されたかどうかは判らないが捕虜になった参謀長が復職したのは本当のようだ。海軍の身内びいきの現れといえる。


連合艦隊のつながりでいえばNHKの「坂の上の雲」も楽しみなドラマだった。ただ難をひとついえば、日露戦争で満州に派遣された陸軍軍人が全くバラバラな軍服を着ていたことだ。日露戦争の史料は自衛隊の目黒研究所へ行けば殆んど揃っている筈。大山司令長官、児玉参謀長、乃木第三軍司令官ならびにそれぞれの幕僚たちの軍服が全部違っていたのはどういうことなのか?特に大山司令長官の奉天入城の際の写真が現存するだけに、NHKが何故あのような扮装をさせたのか腑に落ちない。


現在、日本で製作されている時代劇は一本だけだそうだ。テレビ界では時代劇の視聴者は高齢者ばかりで、しかも高齢者は購買力を持たないからドラマを提供しても商品の需要につながらないので、時代劇は敬遠されているらしい。


やむを得ぬ仕儀とはいえ、時代劇を支えるのは職人である。特に美術関係、大道具の建て込み、小道具、衣装、床山さんなど、みんな名人気質の職人である。

職人というのは仕事をしてナンボの世界である。仕事のなくなったこの人たちがいなくなったら時代劇は自然消滅するであろう。


100年ほど前の日露戦争ですらキチンと描けず、どこからも批難の声が出ないようでは将来の時代劇は思いやられる。

文化庁にお願いしても、なんともならんのかなぁ・・・。

2012年01月11日(水)

幽明の境をまたいで

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これまで西暦の年数を言われると1945年を基準として、戦後何年後のあの頃か、と納得するのが常だった。昭和が終るまでこの方法はうまくいったが、平成になると面倒くさくなってきた。


2011年は公私共に大変な年だった。2012年の新春を迎えるに当って、自分なりに頭の中の整理をして、と思いつつ、余りの事の多さにどう手をつけてよいか分らず、一切合切背負ってというより引きずりながら越年した次第。


死神のみえつかくれつ年を越す


3月始め、食道ガン発生以来2度目の転移、抗がん剤治療は拒否したから、残るは放射線治療のみ。この治療の最中に東日本の震災、福島原発の事故が発生。この災害に対する政府の対応をニュースでみながら政権交代の失敗を嘆いても後の祭りだった。


芸能界の訃報がこんなに多い年も珍しい。しかも若い人が多い。殆んどが70代前半である、ということは私よりひとまわり若いということ。

長門裕之、南田洋子、細川俊之、児玉清、坂上二郎、入川保則さんたち・・・

みんな一度は仕事で御縁のあった方々である。


80代では同病の和田勉さん(80)。もっとも痛ましいと思ったのは30才以上も年下の田中好子さんであった。これからという人が逝き、幽明の境を跨ぎながらも生きている人間もいる。


去年の暮れ某日。幽明境人ともいうべき15名ばかりが集った。いづれも同期の学徒兵である。すべて大正末期生れ。真昼間から日本酒をグビグビやっている奴もいれば、紫煙を吹き上げながら談論風発、どの顔も年が明けりゃ米寿の祝いよ、と誠にカクシャクたるものである。

ひとしきり現政権の頼りなさ、野党のだらしなさに話が弾んだとき、「俺は橋下徹に期待する」

誰かが言った。

確かに橋下氏は龍馬的存在である。あれくらいの馬力で改革を進めていかなければ、錆びついた日本は再生できないのではないか。年が若いとか、たかが地方の一首長がという批判は当るまい。明治維新前夜にあって坂本竜馬の存在をどれほどの国民が知っていたか。現在の各政党々首は幕末期の老中職ぐらいのもの。閣僚の諸士は列藩大名クラスか。

もう一人の大物、勝海舟はさしずめ石原慎太郎さんということになる。(やや老けているが)


“大阪発の御維新の決着は是非みたいもの”

老兵たちは自分が幽明境人であることなど全く念頭にないらしい。後ろの奴がボソっと呟いた。


“こんな世の中をつくるために俺たちは命を賭けていたのかネ・・・”





2011年12月08日(木)

軍歌を聴いた

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ここはお国の何百里/はなれて 遠き満州の


で始まる軍歌“戦友”は14番まであり(もっと長いようにも思うが・・)、軍歌というより叙事詩である。この歌の12番の歌詞を近頃よく口ずさむようになった。

・・・思いもよらずわれ一人

・・・不思議に命ながらえて

・・・赤い夕日の満州に・・・

と、ここまでは難なく出てくるが、最後の一行がなんとしても思い出せない。我が家にポケット版軍歌集があったが、引越しのどさくさで行方不明。いきつけの古本屋で検索してもらったら種々雑多な軍歌集が全国の古書店にあるらしい。ただし法外と思える値段のものもあり、驚いた。


某日、たまたま出かけた先の近くに区の図書館があったので、軍歌集の閲覧を申し込んだ。しかし、そこには所謂「軍歌集」はなく、それぞれの軍歌の生れた背景や作詞、作曲者の経歴などが書かれているものだけだった。というわけで“戦友”も最初の3番あたりまでしか紹介されていなかった。

困っている老人の風情を見かねたのか、女性司書の一人が「こんなものもあります」と、軍歌というタイトルのCD一巻を手渡してくれた。目次をみると全20曲で、勿論“戦友”も入っていた。早速貸し出しを依頼。


部屋に閉じこもってCDを聴く。途端に戦前の昭和にタイム・スリップしたように次々軍歌が流れ出した。陸海軍混合で20曲、「抜刀隊」から「同期の桜」まで。

体のどこかに沁みついていたのか、自然と一緒に唄い始めた。


問題の「戦友」は14番まで全曲入っていた。

気がかりだった最後の歌詞は次の通り。

・・・戦友(とも)の塚穴掘ろうとは


この秋、学友でもあり戦友でもある友が亡くなった。これで戦前からの知己は一人もいなくなってしまった。そのことがこの“戦友”の12番を口ずさむようになった遠因かもしれない。


軍歌というのは、もともと兵士の志気を鼓舞するためのものだから勇ましい曲が多い。海軍なら“軍艦行進曲”、陸軍では“抜刀隊”(学徒出陣で雨の神宮行道の際、行進曲として使われた。)が著名である。


CDを聴いて気づいたことがある。

陸軍の軍歌には叙情的なものが多いことだ。

・・・万目百里雪白く / 荒茅山河風荒れて / 枯木に宿る鳥もなく / ただ上弦の月蒼し


「あぁ我が戦友」の一節であるが、時代劇の挿入歌としても使えそうな歌詞である。その他に情緒たっぷりな軍歌として、私の愛唱歌でもある「麦と兵隊」がある。


・・・行けど進めど麦また麦の / 波の深さや夜の寒さ / 声を殺して黙々と / 影を落として粛々と /兵は徐州へ前線へ


海軍にはこうした叙情的な軍歌はない。海軍の本質は合理主義である。情緒的であっては艦がどこへ行くかわからぬ。多分そうだろうと思う。ただ一つ、「海ゆかば」だけが別格として軍歌のなかにある。


今日もCDプレイヤーから軍歌が流れています。



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