川止めと文金高島田 | 守田比呂也の見たり聞いたり、話したり

川止めと文金高島田

東京発下り新幹線「こだま」号で約一時間半、

掛川という駅に着く。

そこから在来の東海道線で東京方面へ

三つほど戻ったところが島田駅で

島田市内のホテルに撮影隊は宿泊した。

撮影現場は掛川よりさらに浜松寄りの

袋井というところであった。


因みにこの袋井は旧東海道にあって、江戸から

数えても京から数えても27番目に当り、

「どまんなか」というのがウリになっているそうである。


名物「どまんなか饅頭」というのも凄いネーミングだ。


島田の街は新興都市といった感じで、道幅は広く、

その割りに人も車も少ない。

メインストリートといったものもなく、発展途上といった

おもむきで、かつて東海道の難所、大井川の

人足渡しで有名なあの島田宿の面影は全くない。


地元の人の話では太平洋戦争の時に

アメリカ軍の空襲により島田は壊滅したとのこと。


あの当時、軍需工場もなかった単なる田舎町の

島田が何故米軍に狙われたのか、今でも謎だと

いわれている。


富山を空襲に向った米軍機が天候不良で

引き返した際に島田上空を通過、ついでにというか、

荷を軽くするため(?)に爆弾をバラまいていった

という説もあるらしい。


いづれにしても、バカな戦争のおかげで島田宿の

代官所跡も、問屋場の跡もふっとんでしまった

わけである。


出番のない日、大井川へ行ってみた。


土堤からみる限り、川はかつて時代劇で見たものと

同じ様相で、あちこちに中洲があって水は浅く、

今でも人足渡しは出来そうである。


対岸の金谷へ一本の木製橋が架かっていた。


全長897メートルの木の橋(但し橋脚部は

昭和40年にコンクリート製となる)は、明治2年に

架けられたものだが、世界一の木造歩道橋として

ギネスに認定されたとのこと。


蓬莱橋


大井川には

股通し・帯通し・乳通し・脇通しなどの

言葉があった。

これらは水の深さを示しているのだが、言葉としての

日本語のひびきがまことに結構に思える。


脇通し、つまり人間の脇(約四尺五寸:1メートル

36センチぐらい)まで水がくれば川止めになったらしい。

また御書状箱という公文書の入った箱だけは

一般の川止めとは別の扱いをしたといわれている。


川止め文化といわれるくらい、川止めは

いろんな人間模様をつむぎ出しだ。


「生写朝顔日記(いきうつしあさがおにっき)」

なども川止め文化が産み出した芝居といえよう。


川止めは金と時間の浪費である。 


そこで特別料金を払えば御法度破りで密かに

川越えをさせましょうというヤカラが出てくる。

いま風にいえば白タク稼業というやつ。

これがすべてうまくいくとは限らない。

とっ捕まるのもいれば、途中で水に流され

死亡というのもいた。


川止めは川止めされた人たちと、その人たちと

関り合った地元の人々の数だけの物語りを

作り出していた筈だ。


そういえば髪は文金高島田の島田マゲは

島田の遊女がはじまり、と聞いたことがあるが

これも川止め文化の名残か。


土堤をおりると目の前にド派手な色の建物が

一画を占めていた。


ショッピングモールだった。


次々とマイカーでやってくる客につられて中に入ると

静岡の一地方都市のモールとは思えぬほど、

およそ現代生活に必要なものはすべてそろっている。


川止め文化とショッピングモールという

異次元の世界を瞬時に味わった

わけで、老人にとってはまことに忙しい一日であった。