日本の学校制度  森 有礼(もり ありのり) | 希望の持てる日本社会に 横浜村塾 by 愛の経営参謀

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今日の「日本を元気に」のコーナーで紹介した、森 有礼(もり ありのり)氏について、

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日本の武士(薩摩藩士)・外交官・政治家である。一橋大学創設者、初代の文部大臣、明六社会長、東京学士会院初代会員、明治の六大教育家。子爵。通称は助五郎、金之丞。

1847年(弘化4年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。兄に横山安武がいる。1865年(慶応元年)、五代友厚らとともにイギリスに留学し、その後アメリカにも留学する。このとき、キリスト教に深い関心を示した。明治維新後に帰国すると福澤諭吉、西周、西村茂樹、中村正直、加藤弘之、津田真道、箕作麟祥らと共に明六社を結成する。

1875年(明治8年)、東京銀座尾張町に私塾商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。駐英公使をつとめていたときに、イギリスをおとずれた伊藤博文の知遇をえた。またハーバート・スペンサーから大きな影響をうけたといわれる。福澤諭吉が証人となり、広瀬阿常との結婚に際して婚姻契約書に署名し結婚(日本における最初の契約結婚とされる。ただし、山本七平は「欧米で結婚が契約だというのは二人がそれぞれ神と契約するのであって二人が相互に契約するのではない。欧米人が森の『契約結婚』を聞いたらひっくりかえっただろう」と述べている)。

1885年(明治18年)、第1次伊藤博文内閣の下で初代文部大臣に就任し、以後、日本における教育政策に携わる。「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

1886年(明治19年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めた他、様々な学校制度の整備に邁進し、近代国家としての教育制度の確立に尽力した。黒田清隆内閣でも留任した。しかし1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布式典の当日、2月11日に、国粋主義者・西野文太郎に切りつけられ、翌日死去した。43歳(数え年)。

当時の新聞が、ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗いたと報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な洋化主義者であった森は人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件は森が暗殺される要因の一つになった。

英語の国語化を提唱したことでも有名。1872年にはエール大学の言語学教授ウィリアム・ドワイト・ホイットニー宛てに不規則動詞を除いた英語を国語とするべきかどうか、という書簡を送っているが、ホイットニーは、簡略化した英語に否定的な見解を示した上で、日本語のローマ字化を除いては日本語の廃止に反対した。

仏文学者・哲学者の森有正(1911-1976)は、有礼の孫にあたる。

また急進的な考えを持っていたので大衆とのギャップが出来てしまい、国民から揶揄され「明六の幽霊(有礼)」と呼ばれた。

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