市場をめぐる経済概念とは、水の循環のようなもので、文化人類学的にも民俗学的にも、生物の生存をめぐる物理的、社会学的な環境を含め、人類の歴史と一体であるということを確認しました。

 

 

また、市場という言葉が非常に多様かつ包括的に使われているために混乱を招いてしまう。

ここまでの議論を前提として、より理解を深めるために、市場という言葉の定義を以下のようにしたいと思います。

 

レベル1

市(いち) 歴史的・伝統的にモノの売り買いが行われる行事や、フリーマーケットも含む小規模の売り買いイベント。

レベル2

市場(いちば) 一定の商品を集め大量に売買する場所、小売店が集まり食料品や日用品を売る常設の場所。

レベル3

市場(しじょう) 商品や証券、財貨、が売買される具体的場所や社会制度を包括する経済的かつ哲学的な抽象的空間や概念。

 

 

そういった意味では、休日だけのイベント魚市というのは、市(いち)です。

また、多くのみなさんが観光客も含め築地市場だと思っている築地市場の場外というのは、

市(いち)と市場(いちば)が混在している場所のことで、市場(しじょう)ではありません。

 

築地市場の場内だけが市場(しじょう)と呼べる場所です。

なぜならば、そこは法を含む制度によって周到に設計され組み上げられた、抽象的概念と空間を具現化した場所だからです。

 

市場概念というものがあります。

経済学上の用語としての市場(しじょう)とは、需要と供給が出会う場所=機会のことです。

生産者と消費者が取引をおこなう状況ともいえます。

それなら日曜日のフリーマーケットや港の朝市と何が違うんだ?となりますが、

経済学では港の朝市も資源の取引も、企業間の新製品の開発や金融や証券の取引も、

すべてを包括して説明できるようにするため、それぞれの個別の条件を単純化してモデル化していきます。

 

そのうえで、市場とは何か?を考えました。

市場とは需要と供給の出会いの場であり、その出会いの結果として価格と取引数量が決定する。

そのような単純化したモデルです。

複雑な人間社会の状況を理解し、分析するためのツールですね。

 

本当の戦争ではなく、戦争の分析をするためにするシミュレーションゲームのようなものです。

囲碁や将棋のような。

 

いわば、需要と供給を押し立てて闘うリング、スポーツやゲームのようなものとしての市場概念の確立です。

需要と供給、生産者と消費者を敵と味方に分け、市場というフィールドを通じて競争が起こっているだろうという考え方です。

ですから、そこにおけるルールを見つけ設定しました。

 

ちなみに、competitionという言葉を訳し「競争」という造語したのは福沢諭吉です。

 

 

市場競争の仕組みを分析したアメリカの経済学者、クレア・ウィルコックス(1898ー1970)は、

『産業界における競争と独占(1940)』の中で、市場の内容を分析し、下記のように分類しています。

 

1.完全競争(Perfect Competition) 商品は均一、取引相手も代替可能、完全普及された市場、売り手買い手は無限かつ独立

2.純粋競争(Pure Competition) 完全競争に対し以下が異なる→情報が不均一不完全、取引習慣の存在、

3.不完全競争(Imperfect Competition) 秘匿された情報、市場参入退出の障壁の存在、価格の固定化、少数の売り手同士が連携

4.独占的競争(Monoporistic Competition) 買い手は売り手の変更が困難、価格弾力性なし

5.非価格競争(Non-price Competition) 製品価値以外での競争状態。サービス・外観デザイン・包装・広告・セールストークによる競争

6.寡占(Oligopory) 少数の売り手が相互に依存関係、市場占有率が評価基準、競争者の意向を忖度

7.殺人的破壊的競争(Cut throat or Destructive Competition) 相手が倒れるまで価格引き下げ競争

8.略奪的差別的競争(Predatory and Discriminatory Competition) 他者の市場廃除を狙ってや、一部の商品の価格引き下げ競争

9.公正と不公正競争(Unfair and Fair Competition) 倫理的・法的根拠により価格決定。生産効率と無関係で被害補填的

10.潜在的競争(Potential Competition) 市場参入障壁が低い場合に起こる、新規参入可能者との潜在的競争のこと

11.有効な競争(Effective or Workable Competition) 不完全競争でありながら、必要な情報や各自の独立性で有効に競争が起こっている

12.独占(Monopoly) 競争のない状態。

 

現実は、さらに複雑なのですが、これまでのさまざまな市場特性はこのうちのどれかに入っているだろう、と分析されました。

 

実際に、日本の魚河岸でも築地市場が出来上がる前、日本橋に市場が存在したときには、江戸時代から続くさまざまな慣習や大店の寡占的状況があったといわれています。

 

また、市場は売り手と買い手の数によっても様態が変わります。

 

この絵のように、買い手も売り手も増えていくならば完全競争に近づいていきますが、

売り手が1社で買い手が多数なら独占状態となり、いわば旧共産圏の配給状態であり、

商品の品質も価格も売り手次第で、何をいくらにしても売れるなら、必然的に粗悪化していく可能性があります。

 

 

買い手が1社で売り手が多数なんて状況があるの?と思いますが、たとえば大手自動車メーカーへの部品供給などは、

トヨタならトヨタ1社に対し多くの部品メーカーが納入のために競争をしますが、それは買い手にとって都合のよい競争となります。

 

 

100円ショップ納品でも見られるような、いわば、生産者側はどこまで安くできるかの価格競争ですね。

 

1社および数社で市場を独占するとか、1社および数社でしか買い取りしないとかいった状況は、社会の縮退を意味するものであり、

適性な価格で市場が徐々に増大するか、現状維持していくことが望ましい社会だということです。

PC業界はそうして活気を失っていきました。

 

 

ところがですね、日本だけでなく世界は、ほんの数十年前まで、そのような、どちらか一方に振れた寡占的状況だったのです。

 

たとえば紅茶や、砂糖、カカオやバナナ、原油、ウランなんかもそうですが。

 

市場の独占や寡占が進み、交換や取引が停滞し、分配が滞ると何が起きるでしょうか?

財の偏在ですね。どこかには財はあるのに、必要なところに届いていない、最低限の財の確保が出来ない。

 

それが、水や食料なら戦争が起こりますが、その前に飢饉が起こります。

 

 

日本の歴史上も、記録に残るような大飢饉が何度も起こっています。

 

三世紀頃といわれる崇神天皇時代に『日本書紀』の記録として

 「此天皇之御世役病多起人民死為尽」(この天皇の御世に、疫病起こりて、人民死にて尽きむとしき)

疫病が流行り、多くの人民が死に飢饉となった。

 


同じく『日本書記』の欽明天皇28年(西暦567年)、「郡国大水となり、飢えて人互いに食べる」という記録があります。

飢餓の原因には干害、冷害、風水害がありますが、治水が行き届かないこの時代、干害が最も恐ろしいものとされていました。

 

平安時代末期には鴨長明『方丈記』にも書かれた、養和の飢饉(1181年)があります。

 

 

「・・・築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、

くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり・・・」

京都だけで4万3千200人以上が亡くなったと、鴨長明は書いています。

 

以降、歴史上大規模な飢饉として

 

寛喜の大飢饉(1231年)
前年の凶作、この年の麦の減収で飢饉が全国的に広がり、「天下の人種三分の一失す」とも言われた。

鎌倉幕府は、鶴岡八幡宮で国土豊年のための祈とうを行った。

鎌倉の飢饉(1428年)
鎌倉で2万人の餓死者が出た。『神明鏡』

寛正の大飢饉(1461年)
異常気象で全国飢饉、京都の死者は8万2千人に達し、死体は市中にあふれ鴨川は死臭がおおった。
禅僧雲泉大極の『碧山日録』 

寛永の大飢饉(1642年) 
全国で飢饉。飢饉は数年の間に断続的に起こり、幕府は農業政策の改革をおこなう。

亨保の飢饉(1732年)
稲の害虫ウンカが大発生し西日本各地を襲い、作物に大打撃。『徳川実紀』

「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人。飢饉で収穫が半分以下に落ち込んだ藩は46藩に至る。」

250藩といわれていますから5分1の藩で飢餓が起こっています。

宝暦の飢饉(1756年) 
近世の四大飢餓の一つ、岩手と宮城の両県で合計約5万人の死者を出した


天明の大飢饉(1783年) 
5年間、東北地方を中心にして大飢饉が発生。奥州路に行き倒れた死体が重なり、人々は草の根はもちろん、猫や犬、なかには人肉を食う者も珍しくなかった。

もっとも被害の大きかった津軽藩の記録『天明凶歳日記』では、「餓死老若男女10万2千余人、死に絶え空家になった家3万5千余軒、他に3万余人病にて果てる。他国に行った者8万余人」、藩の人口の三分の一が餓死した。
 杉田玄白の記録によれば、

「・・・田畑は皆荒れ果てて原野のようになり、里は行き交う人もなく、民屋は立ち並んでいるが人の声もせず、天災で亡くなった人を葬る者もいない。筋肉がただれさせ臥せる者。あるいは白骨になって夜着のまま転がっている者。また道々の草の間には餓死した人の骸骨が累々と重なりあい、幾つもあるのを見た」。

飢饉により米価の高騰が起こり、大坂・江戸で米屋・豪商の打ち壊しが相次いだ。

 



 

天保の大飢饉(1836年) 
1833年から大飢饉が始まり、年ごとに深刻さを増大、陸奥では作物が全滅、九州も6割が不作という全国的な規模のものとなる。

 

ざっと、上げただけでも近世に近づくほど、飢饉は頻発し被害は増大していくようにみえます。

その原因は地球規模の天候変化であるとか、異常気象であるとか、いわれておりますが、、、、、

東北地方で人口が半減したともいわれている天明の大飢饉(1783年) のような被害では、もう作物なぞまったく取れなかったのだろうと想像しますが、米はそこそこ収穫できていたらしいのです。

もちろん、天候によって作柄は悪かった・・・しかしながら領民のすべてが飢えてしまうような状況ではなかったらしいのです。

 

なのに、なぜ?と思いますよね。

それは、取れた米を全部、全部ではなかったかもしれませんが、それでも多くの米を、領内で消費するのではなく、

「大阪や江戸に送った」からなのです。

 

 

な、な、何いー!と思いますよね。気候変動だからしょうがなかったんだ・・・とついつい考えてしまいましたが、

日本は砂漠ではないので、いきなり草木が全て死に絶え、枯れ果て、といったことは起きにくい風土です。

 

なぜ?送るのか?と思いますよね。

それは、大消費地の大阪や江戸に送った方が、高く売れるから、換金できるから、いわゆる市場価格の問題です。

 

 

なぜ、こんだけ人が死んでるのに、飢饉なのに、換金するんだと?と思いますよね。

それは、借金の返済のためです。藩の財政、経済的事情です。

仙台藩など100万石といわれておりましたが、米は全部大阪や江戸に送り、換金して借金返済している貧乏藩でした。

住民の三分の一が餓死した状況の弘前藩でも、その年に取れた米40万俵もの米を大阪、江戸に送っていました。

 

一俵がどれくらいのお米かというと、約40升です。

これは4斗でもあり、1升は10合だから、飢饉で一人一日二合の米の配給だとしても、一俵で200人分。

40万俵といえば、8000万人分。100日で割っても80万人分ありますから、優に弘前藩領民は助かっています。

緊急事態であることを鑑み、藩の運営をキチンと考えるものがいなかったのか?と大変腹立たしく思います。

 

藩とは社会とは人の集まりなので、人口の三分の一が餓死してしまっては本末転倒であり、

翌年以降、藩の運営すらおぼつかないと思うのですが、そんなことも見えなくしてしまうのが、

金融契約に縛られ政策遂行にのみしたがう官僚機構や、数字にのみとらわれた経済学者のとった行動の結果です。

 

この人達は、財政破綻して藩がお取りつぶしになることを恐れて、領民が全滅しても借金返済を優先したんです。

えーっと、徳川幕府は失政をおこなった藩主を取りつぶして大名をすげ替えることはしたと思うんですが、

領民を死なす気はなくて、飢饉で餓死するような状況を望んではなかったと思うンですね。

 

つまり、既存藩主とそこに連なる家臣を含めた行政単位が、自らの保身のために、異常気象で米の作柄が悪かったにもかかわらず、

何事もなかったかのように、金融返済を優先して、藩の経済信用が、金融評価が、下がらないように振る舞ったがために!

領民は餓死したのです。

 

太平洋戦争のときのインパール作戦もそうですが、こんなことばっかりやってますね、日本の小役人たちは・・・

日本の歴史を通じて、何度か起こった飢饉のいくつかは、実は政策ミス、人災だったという話しでした。

 

明治維新を迎え、そのような徳川忖度政治、うまくいってるように誤魔化す藩政、それは消えたのでしょうか、

明治維新以降、地方はむしろ疲弊して、それまでの体制が崩れることで失職したり、貧困に陥ったり、

様々な人々が職や出世のチャンスを求めて多くの人々が故郷を捨てて、大阪や東京の大都市に出て来ました。

残念ながら、急激な都市化をまかなうだけの都市のインフラも食料の備蓄もまったく足りていませんでした。

 

そのような、大規模な人災としての飢饉が、大正時代にも起こりました。それが!米騒動です。

 

⑥につづく