一昨年、新国立競技場問題に取り組んでいるときに、

私は映像作家の大沢さんと知り合いました。

 

本日、縁があって大沢さんのご祖父さんのアトリエを見学させていただきました。

 

 

ゆるい傾斜屋根の下がそのまま吹き抜けとなった空間です。

木造の骨組みの現し方が非常によく練られていて、

具象的かつ木質の素材感が優しいのですが、同時に抽象的で

彫刻的な力強いフレーム表現となっているところに注目しました。

 

 

天窓からの明かりが映えています。

壁に残った絵具の後が、もはや抽象絵画のように感じられてきます。

主の居ないアトリエはどこか寂しげな印象ですが、ふと、ここで、

今ベストセラーとなっている村上春樹さんの「騎士団長殺し」の1シーンを思い出し、

まるで、小説の中にいるかのような錯覚にとらわれました。

 

 

大沢さんは、子供の頃、このお祖父さんのアトリエ住宅で育ったそうです。

 

私が大沢さんと知り合った当時、国立競技場の壁画保存の運動に取り組まれていました。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/new_stadium/list/CK2015041702000282.html

 

【新国立競技場問題】国立競技場の壁画11点 一転、保存の可能性

画家の孫、署名活動実る
 二〇二〇年東京五輪に向けた国立競技場の建て替えに伴い、行き先が宙に浮いていた十一点のモザイク壁画が新競技場内に移設保存される可能性が出てきた。

事業を進める日本スポーツ振興センター(JSC)が保存を前提に、新競技場内で設置可能な場所の検討を進めていることが分かった。廃棄の危険性から一転、事態を動かした背景には、保存を求めて一人で署名集めを続けた男性がいる。(森本智之)
 三月下旬、川崎市の大沢昌史さん(48)は永田町にいた。祖父の昌助(しょうすけ)さん(一九〇三~九七年)は壁画を手掛けた四人の画家の一人。集めた署名を添えて、国会に請願するため議員を訪ね歩いていた。
 ロックバンド「ユニコーン」のライブビデオを手掛けるなど本業は映像ディレクター。署名集めも議員に面会するのも初めての経験だが「わらにもすがる思い」と話した。


 JSCは昨夏、「最終保存場所は今後検討する」として、移設先を決めないまま十一点を撤去することを公表。いくつかのブロックに切断し、今年二月までに撤去を終えた。現在は国立代々木競技場の屋外の敷地に保存されている。
 大沢さんは「当初は『保存する』と聞いて安心したがよく確認すると、いまの状況で受け入れに手を挙げる人がいるとは思えないと不安になった」。


 壁画は壁に直接張り付けてあり厚さ四十五センチになる。さらに十一点のうち大きいもので約八メートル四方、重さは七十トンに達する。ブロックに切り分けても移設先まで運搬し復元するにはコストもかかる。バラバラのまま現物も確認できずに引き受ける人がいるかも疑問だった。


 祖父の昌助さんは東京美術学校西洋画科を首席で卒業し戦前戦後を通じて活躍した著名画家。都議会議事堂の壁画もその作品だ。国立競技場の十一点のうち「動態」「人と太陽」の二点を手掛けた。


 制作に当たり「暗い壁面のために明るいタイルを選んだ」「他の人の作品と調子が狂わないように心を配った」と言葉を残した。一連の壁画は一九六四年の東京五輪に合わせ、日本を代表する画家たちが作った。昌助さんは展示場所の環境や他の作品とのバランスまで考慮していたのだ。


 だが「人と太陽」の前にはその後、控室が増築された。「人が一人通れるくらいの隙間しかなく、ホコリだらけになっていた」
 昌助さんらの壁画がこうした不遇な状況に置かれる一方で、「勝利の女神像」「野見宿禰(のみのすくね)像」という別の二点の壁画は当初から新国立競技場への移設が決定していた。同じくモニュメントとして移設される聖火台は撤去の様子が恭しく報道された。同じ五輪の“遺産”だが、差は明らかだった。


 大沢さんは十一点全てを「勝利の女神像」「野見宿禰像」と一緒に新競技場に移設することを求めてきた。知人だった地元市議らに相談し、署名を添えて国会に請願するというアイデアを得た。国立競技場の建て替え問題のシンポジウムを傍聴するなどして出席者らに助言も求め、集めた署名は千人ほどになった。


 当初は積極的とは言い難かったJSCの対応も変わった。新競技場に壁画の設置スペースを作り出せるかどうか検討し、七カ所程度の候補場所が浮上。広報担当者は本紙に「検討を続け、全ての壁画を保存したい」と述べた。保存の全体像は、今秋までにまとまる新競技場の実施設計に織り込まれる見通しという。


 おじいちゃん子だったという大沢さん。父も画家で、周囲からは画家になることを期待されていたという。「祖父の作品は大好きですが、別の道に進んだ負い目もあって美術そのものに背を向けてきたところがあった。でも保存に向けた活動の中でモザイク画の魅力を知った。おじいちゃんから『おまえもそろそろ美術に興味を持て』と言われているような気がする」と胸の内を話した。

 

東京新聞 2015年4月17日

 

わたくしも新国立競技場問題の渦中に国立の解体工事が進んでしまう!と騒いでいた頃。

このままでは建築といっしょに貴重な芸術作品も損なわれてしまう!という時期でした。

 

 

作者の大沢昌助さんとはいったいどういう方なのでしょうか。

「大沢昌助」で画像検索してみてください。

たくさんの大沢さんの作品画像や図録や展覧会の案内が出てきます。

 

さまざまな色彩や形態を自由奔放に駆使した多様な作品と通り一遍の解説をしたくなりますが、

 

実際、個々の作品は非常にシンプルです。

かつ、楽しい雰囲気、明るい雰囲気。

選りすぐられ研ぎ澄まされた形態と色彩が、緊張感よりもむしろ心和ませる感じ。

多様なスタイルを駆使しながら各々の作品は書道作品を思わせるミニマルなモチーフ。

で、ありながら、

絵画表現の可能性と領域を延々と拡張し続けた作品群といってもよいでしょう。

 

 

大沢昌助の世界

http://osawashosuke.com/aboutso/

 

1903年(明治36年)9月24日、東京三田綱町に大沢三之助、みよ子の三人兄弟の二男として生まれる。
三之助は建築家辰野金吾の教えをうけ、後に東京美術学校図案科第二部(建築科)主任教授となる。昌助の兄と弟は建築家になった。三之助の妹(いと子)は福沢諭吉の長男一太郎に嫁いだ。


1923年(大正12年)(20歳) 4月、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学び、三年次に藤島武二教室に入る。一級上に猪熊弦一郎、山口長男、荻須高徳、岡田謙三、牛島憲之、小磯良平、一級下に吉井淳二、久保守らがいた。


1928年(昭和3年)(25歳) 東京美術学校西洋画科を首席で卒業。
1932年(昭和7年)(29歳) 世田谷区玉川奥沢町2-666にアトリエを建て、転居。この年、国立音楽学校の一期生でピアニストの北村季美子と結婚する。(季美子の父北村季春は長野県歌「信濃の国」の作曲者)
1933年(昭和8年)(30歳) 大沢昌助油絵個展(日動画廊)開催、福沢一郎から励ましをうける。
1939年(昭和14年)(36歳) この年から児童雑誌『コドモノクニ』に童画を掲載。
1942年(昭和17年)(39歳) 二科賞受賞。
1943年(昭和18年)(40歳) 二科会会員に推挙される。
1945年(昭和20年)(42歳) 4月頃、強制疎開を受け、福沢方に転居。8月、父、三之助死去。この年、二科会再建に会員として参加する。
1946年(昭和21年)(43歳) 武井武雄、初山滋らによる日本童画会の創立に参加。
1954年(昭和29年)(51歳) 多摩美術大学教授となる(1969年まで)。
1961年(昭和36年)(58歳) 兜屋画廊で戦後初個展。
1965年(昭和40年)(62歳) 第4回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞。多摩美術大学正面玄関にモザイク壁画を制作。第8回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品
1973年(昭和48年)(70歳) 大沢昌助・村井正誠・山口長男展(夢土画廊)
1975年(昭和50年)(72歳) 麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男展(ギャラリーセゾン)
1978年(昭和53年)(75歳) 大沢昌助・堀文子・建畠覚造展(神奈川県民ギャラリー)開催。
1981年(昭和56年)(78歳) 大沢昌助の世界展(池田二十世紀美術館)開催
1982年(昭和57年)(79歳) 二科会を退会。
1984年(昭和59年)(81歳) 大沢昌助個展(銀座アートセンターホール)開催、「隠喩(赤)」「隠喩(青)」
1991年(平成3年)(88歳) 8月、大沢昌助展(銀座、和光ホール)開催。9月、変身と変貌 大沢昌助展(練馬区立美術館)開催。東京都新都庁舎都議会本会議場前ロビーの大理石に壁面デザイン。
1995年(平成7年)(92歳) 第4回中村彝賞受賞。
1997年(平成9年)5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため自宅で死去。享年93。9月、追悼 大沢昌助展(練馬区立美術館)。

 

大沢昌助さんのアトリエの様子がわかるTV番組の動画です。

この動画を見ていただくと、大沢さんは巨匠にもかかわらず武張ったところもなく、

気さくかつ、洒脱で、肩肘張った芸術家といったイメージよりも、

大工さんのような俳人のような毎日生活と共に芸術がある、そんな素敵な先生です。

 

 

この映像の中にある空間がそのまま現前しておりました。

 

 

このアトリエ住宅、築70年近いのですが、

塗装は傷んだとこもありますが、

デザイン的にも空間的にも最近のニューハウスと比較しても、

まったく遜色なくいどころか、むしろ木製建具の味や真鍮金具の風合いが年季を増して、

新建材やビニルクロス、窯業系サイディングといった工場製品ものでは、

決して到達できないであろう深味に達しておりました。

 

それも、そのはず、この建物の設計者は、

前川国男事務所のチーフアーキテクトの一人だった大沢三郎さん設計なのです。

 

どこか、前川自邸を感じさせるのもの、そういった理由です。

 

この自邸も本日限りで人手に渡り、取り壊されてしまうだろう、とのことです。

 

また、つづきを書きますね。