クロマティ高校に竹之内豊なる人物が存在します。
クロマティ高校1年を仕切るものとして、ケンカの実力、人望の厚さ、どれを取っても右に出るやつはいねえ。
三年さえ一目置く存在ということで自画自賛しているという人物です。
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まあ、言ってみればクロマティ高校一番の最重要人物だそうですね。
仲間が他校に拉致られれば、いの一番に乗り込んで蹴散らす。
校内でつまらないいざこざがあれば、竹之内の顔で解決する。
そんな顔役的な人物なんです。

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しかし、彼はある致命的な弱点を抱えて生きています。
それは、乗り物酔いしてしまうという事実です。
確かに、乗り物酔いというのは、それを抱え込む人にとってはちょっとシャレになんない弱点ですよね。
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竹之内君はクロマティ高校1年の顔役なんです。なにか事があれば中心になって動かざるを得ない人物、意外と学業成績も優秀であり周囲から尊敬され一目置かれている人物なんです。
本人も自覚しています。

そんな、強い、頼りがいのある、凶暴なはずの俺が、
修学旅行や研修旅行のちょっとした移動、他の生徒達、仲間達が浮き足立つ小旅行の折に、乗り物酔いなんてありえねえ、乗り物に弱いなんて認めたくない、周りのやつらに同情され、世話を焼かれる羽目になるなんて認めたくねえんだよ!というのが竹之内君の本心なんです。
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しかし、状況は容赦なく竹之内に襲ってきます。
しかも、不良の代表ゆえにバスの席は一番後ろ。
小学生のときに言われましたよね、乗り物酔いしやすい子は前の方に座るように、決してタイヤハウスの真上や一番揺れが襲う最後部席には座らないようにって。
その車酔いにとっては最悪の最後部席に陣取らざるを得ないのが竹之内なんです。
なぜなら、クラスで一番のワルとか番長が座る特等席が最後部席と決まっているからなんです。

竹之内としては酔いやすいので前のほうに座りたい。→個人的願望
しかし、番長としては最後部座席に座らざるを得ない。→社会的役割
なんか酔いそう→個人的事情
決して酔って吐くなんている醜態は見せられない。社会的イメージ

といったような事情と状況にアンビバレンツなジレンマにさいなまれてしまいます。
これが1巻から3巻までずっと続くのです。
竹之内君にとっては地獄ですよね。

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いうなれば、竹之内は自分自身の欲求や状況判断の前に、自分が期待されている役割とか、竹之内というパブリックイメージが崩れることを恐れているわけです。

だから、乗り物酔いしやすいことも、今まさに吐きそうであることも、吐き気を抑えながら必死で耐えていることも誰にもバラすことは出来ないんです。
不良とはいえ、なんてイジらしいのでしょうか。


なぜ、ここまで竹之内が頑張ってしまうのかということを研究した人がいます。
ジョージ・ハーバート・ミードという人です。

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「精神・自我・社会」とか「社会的自我」とかいった著作があります。

人間の自我とはあらかじめ与えられているものではなく、後天的に流動的な社会や変化し続ける他者の影響を受けながら、自分が社会の中で何をなすべきか、他者から向けられている期待的役割を認識し、それを規範とすることで形づくられるものだと述べています。

この社会から期待されて動こうとする自我を「Me」と呼んでいますが、個人が自我を確立するうえで取り込んでいく他者は自我を方向づけると同時に、自我と対立し抑圧を与える存在と既定します。
この社会規範でもある「社会的他我」とは、「一般的他者」と「重要な他者」とに分けられるとしています。
これら二つの社会的他者の内在化によって個人の自我は形成されるとしています。

しかし。「Me」だけでは、他者からの受動的役割に終始してしまいますが、個人の個性ともいうべき内発的な反応を「I」と呼んでいます。この「Me」と「I」の相互の緊張関係によって社会的な自我が形成されていくとしています。

このとき「Me」が肥大しすぎると自分の個性が活かせず、「I」が大きければ自己中心的となってしまい周辺環境に適応できていないということになります。

竹之内の苦しみをここまで目の当たりにしてしまった今、この分析によれば、
スキンヘッドにとてつもなくいかつい風貌に見えるものの、竹之内は「自己の嘔吐欲求」よりも社会的重要な他者としての同級生からの「圧倒的にどっしり落ち着いた強者」としての社会的期待を優先していることになります。

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つまりは、ヤンキー、そして不良という自己中心的な破壊者イメージの最右翼と誤解されがちな竹之内ですが、
むしろ、みんなのことを考え、クロマティ社会の期待に応えたいという迎合的な自我しか観測できないという、そんな矛盾した結論が伺えるわけです。

そういった意味では、「魁!!クロマティ高校」の登場人物の中で、もっとも自己犠牲精神にあふれたというか、社会的欲求に最大限応えようとして、頑張り抜いている竹之内君とは、
もはや個人的自我やエゴを超越した、役割としての竹之内を演じ切っている存在。
竹之内という存在そのものが個人とかパーソナリティを超えた役割的存在。

ジョージ・ハーバート・ミードの言う社会的自我という理論をもっとも如実に示してくれたのが、竹之内君なわけです。

その証拠に乗り物酔いしやすい竹之内個人はアメリカに置き去りにされているにも関わらず、
勝手に竹之内に成りすましたハイジャック犯があっさり「マスクド竹之内」として、
クロマティ社会の必要不可分の竹之内要素に受け入れられてしまうというエピソードを、大した説明も無く普通に展開させる作者野中のある意味容赦のない行為を、読者も適当に納得してしまうという事実からも伺えるのであります。


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つづく、どんどんつづけてしまいます。