ということで、どんどん「矢沢化」を掘り下げていきたいと思うのですが、

龍樹という人がいます。
本名はナーガールジューナというインドの人ですが、
この音を漢訳したものが龍樹です、竜樹とも書きます。
なかなかいい漢訳ですよね。
ドラゴンツリー、いかにもなんか凄そう、そして威厳と侠気が感じられるそんな名前。

矢沢化を掘り下げているときに、私が思い出したのがこの龍樹なんです。
この人は、まあ仏教中のキャラでは、私がもっともカッコイイなと考えている人なんです。

いわゆるこの人は「空(くう)」の思想で有名なんですが、
一般的にこの「空(くう)」というのは、なんにもない、非存在、ゼロ、
そんな風に理解されているのがほとんどだと思います。

日本では、老荘思想、特に老子の「空(くう)」の概念の方がどちらかというと優勢で、
なんにもないことの有用性、器には空(実際は空間のこと)があるから水が入る、
そんな意味では空も役に立つ、といったようなすこし詭弁の感がある論旨です。

龍樹がいっていたことは、そんななんにもないとかいう意味ではない。
そもそも、仏教というのは、「ある」とか「ない」とか、
特に、「実在」、「非実在」に拘泥することを厳しく戒めている。

いや、実際には釈迦は戒めとか押し付けとかは最もやらないんですけど、、
仏教というのは、はっきり言って本来普通考える宗教とは違うと考えています。

むしろ、倫理学と哲学と物理学をミックスしたような思想というか分析体系。
現代の私たちから見ると、宗教的な教えなんでしょうが、
どちらかというと、観想による物理学ととらえれば、
宇宙の星々を観測することで発展進化していった量子力学に近いかもしれない。

観測と認識、認識を前提とする観測、その観測から得られる認識。

それが仏教の本質と私は考えているのです。

その中で、龍樹は言葉の意味、言葉の機能、言葉の世界枠について言及した人なんですね。


まず、仏教、一般的なイメージを避けるために、ブッディズムと言い換えましょうか。
ブッディズムというのは、個人の悩みや個人的願望に対して答えようという学問ではないんですね。
この世界をどのように捉えるかを考えるという議論集なんです。

そもそも、ブッディズムの開祖のゴウタマ・シッダールダさんという人は、
伝承によれば現在のネパールのシャーキ族の王子様なんです。
ゴウタマとは最高の牛、シッダールダとは成功という意味で、「成功したすげぇ牛」という名前です。強引に和訳すれば、達成牛優(たつなり うしお)といった感じですかね。
そして、セレブっていうだけじゃなくて秀才でもあったんですね。

この人は王子様として何不自由なく成長していったんですが、インテリゆえの悩みも多くありました。
なんで人はこの世に生まれてくるのか、、生まれて生きても最後は死ぬのに、、といった、
多くの人が、生死を意識する以前に空腹とか、寒暑とか、病苦とか、から逃れようと、
悩む間もなくもがいている中で、まあ恵まれているゆえの悩みですね。


そんなメランコリックな状況で、モヤモヤしていたときに、サマナ(修行者)の吹っ切れた感じを見て、
なんかイイ!と思ったわけです。
現代でいえば、代々お金持ちの家に生まれてとりあえず実家の資産を守っとけ!って言われて腐っている元秀才が、毎日つまらん、つまらん、と思っていたところ、
寝食も忘れて研究に打ち込んでいる宇宙物理学者とか、家にも帰らずロボット開発なんかをしている科学者とか、一切の世俗的成功を捨てて趣味のコレクションにつぎ込んでいる何かのマニア、オタクを見てしまい、羨ましい!!と思ったようなものでしょうか。


で、家出して、そういった人たちのところに
出向いて、いろいろと尋ねたり、いっしょになって宇宙論やロボット論をたたかわしてみるわけですね。
根本的な原理の追求とか、純粋な研究欲求とかを期待してワクワクモードで接近してみたものの、意外と学会での実績を積みたいとか、ある種の発明によって名声を得たいとか、研究成果の特許化によって巨万の富を得たいとか、実際に会ってみたそれらの研究者、教授とかの意外な俗物っぷりに幻滅してしまい、じゃあもうしょうがない。

自分の研究サロンを開くぞ!
世界の原理、宇宙の仕組み、人間存在の研究っていうテーマで始めたのが、
ブッディズムです。